日本キリスト教団 東久留米教会

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2023-11-12 2:17:28()
説教「走り抜く信仰」 2023年11月12日(日)聖徒の日(召天者記念日)礼拝
順序:招詞 ペトロの手紙(二)3:9,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編112、使徒信条、讃美歌21・460、聖書 ヘブライ人への手紙12:1~13(新約p.416)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌327、献金、頌栄92、祝祷。 

(ヘブライ人への手紙12:1~13) こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

(説教) 本日は、聖徒の日(召天者記念日)です。説教題は「走り抜く信仰」です。新約聖書は、ヘブライ人への手紙12章1~13節です。小見出しは、「主による鍛錬」です。

 1節「こういうわけで、私たちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」口語訳聖書では、こうなっています。「こういうわけで、私たちはこのような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつ罪とをかな繰り捨てて、私たちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」「群れ」と訳されている元のギリシア語には「雲」の意味もあるそうなので、両方の訳共に正しいのです。「おびただしい証人の群れ」「多くの証人に雲のように囲まれている」とは、この前の11章にリストアップされている数多くの信仰者たちのことを指します。旧約聖書の時代の立派な信仰者たちです。アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセです。本日は礼拝後に、東久留米教会の歴史の中で天に召された方々のお写真を写し出しますが、私たちもこのような雲のような証人の群れに囲まれていることを思い、私たちも同じ信仰で最後まで走り抜こうと決心しているのです。

 証人と訳された元のギリシア語は、マルトゥスという言葉で、後には殉教者の意味にもなりました。イエス・キリストを指し示す証人として生きた人々の中には、殉教の死を遂げる人々もいたからです。実際11章の36節を見ると、大変な迫害を受けたことが分かります。「あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。」ここを読むと、あまりの迫害に私たちは驚きますが、それでも信仰の道を行きぬいた雲のような証人の存在に励まされて、「すべての重荷(罪を指す可能性あり)や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と、このヘブライ人への手紙の著者は私たちを励まします。この手紙の著者は誰なのか、この手紙のどこを読んでも書かれていないので、著者が誰かは分かりません。新約聖書の中の手紙の多くが、イエス様の弟子・使徒パウロによって書かれているので、パウロが書いたとする説もありますが。手紙の中には著者名が全く書かれていないのでパウロと断定することはできず、結局誰が著者かは分かりません。

 それは気にしないで、中身を読み進めます。著者は私たちを、信仰の競争を忍耐強く天国に入るまで走り抜こうと励ますのですが、同じような御言葉は新約聖書の他の個所にもあります。たとえばコリントの信徒への手紙(一)9章24節で、パウロがこう書いています。「競技場で走る者は皆走るけれども。賞を受けるのは一人だけです。あなた方も賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるために節制するのです。だから、私としてはやみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘(ボクシング)もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは。他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」信仰の競争・走りは多くの場合、短距離走ではなく、中距離・長距離走・マラソンです。忍耐強く完走することが重要です。

 ヘブライ人への手紙に戻り、2節「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」私たちの罪を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活され、今は天から私たちを守って下さるイエス・キリストを見つめて、目をそらさないで走り通すのです。「このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て(天国の栄光を捨ててこの地上に降ったこと、クリスマスの出来事)、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」このイエス様の地上の生涯こそ、私たちの模範です。3節「あなた方が、気力を失い疲れ果ててしまわないように。御自分に対する罪人(つみびと)たちのこのような反抗を忍耐された方(イエス様)のことを、よく考えなさい。」イエス様が私たちのために味わい、忍耐された多くの苦労・苦難を思い、心を振るい立たせて自分たちも苦難に負けないようにしなさいという励ましです。この手紙をはじめに読んだクリスチャンたちも、様々な迫害に苦労していたのです。テモテへの手紙(二) 3章12節には、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」と書かれていますね。

 4節「あなた方はまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」これは、色々な誘惑や試練の中で、信仰を捨てる罪のことです。誘惑や試練の中で血を流すまでに信仰を守る戦いを戦い抜いたことがないということです。信仰の戦いを立派に最後まで立派に戦い抜いて信仰を守り通しなさいという励ましです。これはやはり、迫害の中にいるクリスチャンたちへの励ましです。10章24節にも、「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に習って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日(神の国の完成の時)が近づいているのを、あなた方は知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」

 12章に戻り5節以下。「また、子どもたちに対するようにあなた方に話されている次の勧告を忘れています。(旧約聖書の箴言等からの引用)『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もし誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそあなた方は庶子であって、実の子ではありません。」神様が私たちの信仰を鍛えるために、鍛錬なさるというのです。ヨハネの黙示録3章15節以下には、イエス様の御言葉が、次のように書かれています。これは信仰がなまぬるかったラオディキアという都市の教会への激励のメッセージです。「私はあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので。私はあなたを口から吐き出そうとしている。」この厳しい御言葉の後に、イエス様がこう言われます。「私は愛する者を皆、叱ったり鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、私は戸口に立って、叩いている。誰か私の声を聞いて戸を開ける(心のドアを開く)者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。」私(イエス様)の熱愛を受け入れて、私を心の中に迎え入れてほしいとの、イエス様から私たちへのメッセージです。

 ヘブライ人への手紙に戻り9節以下。「更にまた。私たちには、鍛えてくれる肉の父(肉親の父)がおり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父(父なる神様)に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益となるように、御自分の神性(清さ)にあずからせる目的で私たちを鍛えられるのです。」私たちがますます清くなり、イエス様に似た人格の人になるように、清めて鍛錬して下さるのです。

 11節以下「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれによって鍛え上げられた人々に、義とい平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなった膝をまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒されるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」そして今日の個所の次の14節では、次のように励ましているのです。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めないなさい。聖なる生活を抜きにして、誰も主を(父なる神様を、イエス・キリストを)見ることはできません。」

 私は先週、台湾の首都・台北に行かせていただきましたが、台湾は日清戦争の結果、1895年に清国(中国)から日本に割譲されて日本の植民地になり、1945年の日本の敗戦まで50年間日本の植民地でした。その後、中国大陸で共産党に負けた国民党が蒋介石をリーダーとして入って来たのですが、台湾民衆を押さえつける政策をとったので民衆の反発が起こり、1947年に「二二八事件」という大事件が起こります。怒った民衆が各地で立ち上がったのですが、国民党政府がそれを激しく弾圧しました。戒厳令が敷かれ、国民党に批判的な知識人等が大勢捕まり、投獄・殺害された人は1万8000人~2万8000人とされます。戒厳令は1987年まで続き、恐怖政治が行われたそうです。1987年頃からようやく民主化が進められ、李登輝という台湾基督長老教会のクリスチャンが総統になり、民主化を推進して、民主化が達成されたそうです。李登輝は国民党に属しており、長年国民党は民主化反対派だったのですが、李登輝は国民党所属にもかかわらず、民主化を推進したそうです。

 民主化がなされるまでは、多くの苦難があったそうです。台湾基督長老教会は、民主化を求めていたので、国民党政府から睨まれていました。有名なのは高俊明という牧師、台湾基督長老教会の総幹事を務めました。総幹事任期中の1980年から1984年まで約4年3ヶ月間、投獄されていました。民主化を嫌う国民党政府に憎まれたからです。先ほどお読みした11章36節に「あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました」とあるように、投獄されたのです。この方は2019年に89歳で天に召されています。

 私が初めて台湾に行ったのは1993年、私が通っていた神学校のアジア伝道論の実習旅行でした。台湾からの留学生が案内して下さり、10日間で26の教会や神学校等を巡るというツアーでした。台湾には多くの言語があり、もともとは台湾語と、10数種の原住民(当事者にとって誇りの名称)が各々別々の言語を持っていた。日本の植民地時代は、日本語教育が行われました。その後、1945頃から中国大陸から国民党が入って来たときから、いわゆる中国語が入って来たようです。今でも原住民の各々の言語が生きています。原住民は全人口の2~3%ですが、驚くべきことにほとんどがクリスチャンだそうです。

 私は今回は山地の原住民の教会に行くことはできませんでした(30年前は多く訪問した)。それはともかく、台湾基督長老教会(その中には原住民の教会も多い)は、民衆の仲間として民主化を求めていたので、国民党政府から睨まれました。この方は詩人でもあり、『サボテンと毛虫』(教文館)という詩集が出ています。こんな詩です。「わたしは求めた 美しい花束を しかし、神さまは とげだらけのサボテンをくださった。 わたしは求めた。愛らしい胡蝶を しかし、神さまは ゾッとするような毛虫をくださった。 わたしはなげき、悲しみ、失望した。 しかし 多くの日が過ぎ去ったあと、わたしは目を見張った。 サボテンが多くの花を開いて 美しく咲き乱れ 毛虫が愛らしい胡蝶となって 春風に舞い舞うのを  すばらしい神さまの御計画。」

 意味はこうです。「私の獄中における4年3カ月と21日は苦しいものでした。妻も子たちも、また台湾基督長老教会も、このために大変苦しみました。しかしこの一番苦しかった時を、神様は一番祝福された時に変えて下さいました。日本全国や色々な国から、数えきれないほど多くの慰めの手紙が私の元に送られて来ました。カトリックの特使や世界改革派教会連盟の総幹事や、日本、韓国、カナダ、アメリカ、ドイツ、イギリス、スイス等の教会代表、国会議員、アムネスティ代表および色々な方々が、台湾に私たちを訪問したり、その他の方法で私たちに深い関心を示して下さいました。刑務所の孤独と苦しみと悲しみのさなかにあって、私は何回も何回も、神さまの愛と正義と全能とを全存在をもって体験し、それを再確認することができたのです。確かに神様は、とげだらけのサボテンに多くの花を咲かせ、ゾッとするような毛虫を、愛らしい胡蝶にしてくださって、私を豊かに祝福して下さいました。まことに『苦しみにあったことは、わたしにとって幸せでした』(詩編119編71節)。

 高俊明牧師は、日本と台湾のことも、詩の中で歌い上げておられます。
フィリピの信徒への手紙3章12節~。  アーメン。

2023-11-04 16:57:40(土)
「私たちを友と呼んで下さるキリスト」 2023年11月5日(日)東久留米教会創立62周年記念礼拝説教
順序:招詞 ペトロの手紙(二)3:9,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編112、使徒信条、讃美歌21・357、聖書 イザヤ書41:8~10(旧約p.1126),ヨハネ福音書15:1~17(新約p.198)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌493、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(イザヤ書41:8~10) わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。

(ヨハネ福音書15:1~17) 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

(説教) 本日は、東久留米教会創立62周年礼拝です。説教題は「私たちを友と呼んで下さるキリスト」です。新約聖書は、ヨハネ福音書15章1~17節です。小見出しは、「イエスはまことのぶどうの木」です。

 今日の直前でイエス様は、「さあ、立て。ここから出かけよう」と力強くおっしゃいました。ですがいきなり十字架の場面にはならず、本日の15章では少しホッとするイエス様の説教が続きます。14~16章は、ほとんど途切れないイエス様の長い説教です。そして17章にはイエス様の長い祈りが記され、そして18章でイエス様が捕られます。15章は有名な章と思います。特に15章5節は、大人でも子どもでも暗唱しやすい聖句として知られています。「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。」私が東久留米教会に赴任した1996年に、教会でこの聖句とぶどうの実が描かれた、全体は薄い緑の茶碗を多く作って、教会の集会で長年使用していましたが、まだ11個ほど残っていますね。その年の東久留米教会の標語聖句でした。

 1節から読みますと、「私(イエス様)はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」イエス様は、たとえを用いて本質的な大切なことを語っておられます。今日は聖餐式もありますので、私たちはイエス様という真のぶどうの木から、豊かな栄養分をいただきます。全ての方が早く洗礼を受けられて、共にイエス様の聖なる御血潮のしるしであるぶどう液、そしてイエス様の聖なる御体のしるしであるパン(ウェファース)をお受けになることができますように、心より祈ります。

 2節は厳しい御言葉です。「私につながっていながら、実を結ばない枝は皆、父(父なる神様)が取り除かれる。」これはよほど悪質な人のケースで、たとえばイスカリオテのユダのような人を指すのではないかと思います。「しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」ぶどうなどの木であれば剪定、私たち人間であれば訓練を与えて、信仰を鍛えて下さるということでしょう。

 3節「私の話した言葉によって、あなた方は既に清くなっている。」イエス様の御言葉を心の中に蓄えることによって、私たちの心は清められてゆくのです。ますますイエス様の御言葉、聖書の御言葉を心の中に蓄え、暗記したいものです。私はある英語の聖書を見たことがありますが、イエス様の御言葉だけは赤い文字で印刷されているのです。イエス様の御言葉が一目瞭然です。このヨハネ福音書14~17章をその聖書で見れば、真っ赤なページが続き、かなり印象的です。ある少し昔の牧師の文章に書いてあったのですが、その方は若い頃にヨハネによる福音書とローマの信徒への手紙を全部暗記しようとトライした。全部暗記はできなかったようですが、その熱意はすごいものだと感じました。全部は無理でも、かなり多くを暗記なさったのでしょう。随分心が清められたのではないかと思います。

 4節「私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ。自分では実を結ぶことができないように、あなた方も私(イエス・キリスト)につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており。私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」 「あなた方も私につながっていなければ、実を結ぶことができない。」愛という実(父なる神様を愛し、隣人を愛する実)を結ぶことができないということでしょう。私たちはエゴ(自己中心)の塊の面がありますので。「私を離れては、あなた方は何もできない。」自力だけ(自我、エゴの力だけ)で頑張れば、自己中心的な自己満足の成果を生むことができますが、本当に神様と隣人に喜んでいただける、完全によき愛の実りを産み出すことはできないということです。

 私たちはどのような実を結びたいのかと言えば、ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節に記されている「聖霊の実」です。聖霊はイエス・キリストの霊ですから、私たちはイエス様というぶどうの木からイエス様の御言葉と聖霊という栄養分を注いでいただき、次のような「聖霊の実」を結ばせていただきたいのです。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」9つの実です。愛という最大の実の中に、後の平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の8つの実が含まれているという読み方もあります。

 6節「私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」これも厳しい警告の御言葉です。こうならないように今のうちに早くイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、イエス様につながりなさいという招き、招待の御言葉です。7節「あなた方が、私につながっており、私の言葉があなた方の内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」その人は、イエス様の御言葉を心の中に十二分に蓄えているので、心が清められています。「望むものを何でも願いなさい」と言われて、自分勝手な願い事、祈りをすることはないはずです。しかし神様は寛容な方でもありますから、自分勝手な祈りでなければ。私たちの願いを聞き届けて下さることは十分あり得ます。
 
 かつて神様が即位したばかりの若いソロモン王に、「何事でも願うがよい」と言われたとき、若いソロモン王はこう祈りました。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕(しもべ)をお立てになりました。しかし、私は取るに足りない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。~どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与え下さい。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」神様は、ソロモンのこの願いをお喜びになり、言われました。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、私はあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に魅した賢明な心を与える。~私はまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。」若い謙遜なソロモンの祈りは、すばらしかったのです。残念なことは、ソロモンが次第に多くの側室を持つようになり、彼女たちが持ち込む偶像をも礼拝するようになり、晩年に堕落したことです。「初心忘るべからず」と思わせられ、私・私どもも襟を正させられます。

 ヨハネに戻り8節以下「あなた方が豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。」私たちが聖霊によって愛の実を結ぶなら、それは父なる神様にとっても嬉しいことで、父なる神様にとっても誉になるというのです。「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛して来た。私の愛にとどまりなさい。私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなた方も私の掟を(互いに愛し合いなさい)を守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」

 11~12節「これらのことを話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである。私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。」そして有名な13節「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」イエス様はこの福音書の10章でも、ほぼ同じことを語っておられます。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」イエス様は、語った通りに実行して下さいました。私たちの全ての罪を身代わりに背負って、十字架に架かって死んで下さいました。もちろん三日目に復活され、今も天で生きておられ、天から私たちに聖霊を注いで下さいます。

 14節以下「私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である。もはや、私はあなた方を僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。」父なる神様と私たちの関係、イエス様と私たちの間柄を、聖書は色々に表現します。1つは主と僕です。あるいは花婿と花嫁(夫と妻)と表現されることもありますね。今日の個所では、イエス様が私たちを親しく友と呼んで下さいます。対等扱いして下さっており、大変光栄なことです。私が洗礼を受けた教会で、私が同じ青年の男性に「〇〇さんにとって、イエス様はどんな方ですか」と尋ねたところ、即座に「友達!」という答えが返って来たことを思い出しました。「そうなんだな」と思いました。私たちの方から「イエス様、あなたは私の友達です」と申し上げるのは、ややおこがましい、馴れ馴れしくて言いにくい気がします。しかしイエス様の方から「私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である」と親しく言って下さることは、感謝してお受けしたいと思います。イエス様は罪人(つみびと)である私たちに心の全てをオープンに語って下さり、信頼して打ち明けて下さるのです。

 旧約聖書でも、神様に友と呼ばれた人間がいます。アブラハムです。本日のイザヤ書41章8節以下に、こうあります。「「私(神)の僕イスラエルよ。私の選んだヤコブよ。私の愛する友アブラハムの末(子孫)よ。」ここで旧約聖書の重要な登場人物アブラハムが、「神様の愛する友」と呼ばれています。創世記18章を見ると、神様が非常に罪深いソドムを滅ぼすために地上に来られた時、「私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。~私がアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うように命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われました。「私が行おうとしているソドムへの裁きを、アブラハムに隠す必要はない」と明言され、神様がアブラハムを心から信頼して、アブラハムを尊重して、友として接しておられることが分かります。

 イエス様も私たちの人格を認めて、私たちを信頼して、私たちを僕ではなく、友と呼んで下さいます。大変光栄なことです。「父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」私と妻が洗礼を受けた教会では、洗礼式の前に、自分で書いた信仰の証しを皆さんの前で朗読して、洗礼を受ける伝統です。私もそうしたのですが、その作文の中でこの御言葉を引用しました。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出て行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。」私たちは皆、そうです。神様に選ばれて、招かれてここに来ています。最近私はある牧師の方がこのように言われるのを聞きました。「自分で選んで教会に通うようになったと思っていたが、よく考えてみると幼い時、自分で選んだのではなくて教会付属の幼稚園に入った。やはり自分で選んだのではなく、神様が私を招いて下さったんだ。」イエス様は私たちを友として愛し、信頼しておられますから、私たちが理由もなく礼拝を休んだり、祈りをしなかったりすると、イエス様は寂しく感じ、悲しまれるのですね。私たちはしれを知っておいた方がよいです。私たちが特に理由もなく礼拝を欠席すると、私たちを友として信頼し、愛して下さるイエス様が悲しまれると。
 
 この後で私たちは「いつくしみ深き、友なるイエスは」の讃美歌を歌います。この讃美歌は、本日の御言葉と深く関わっています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である。~私はあなた方を友と呼ぶ。」そして、マタイ福音書11章28節以下のイエス様の御言葉も深く関わっています。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負い易く、私の荷は軽いからである。」私たちの友であるイエス様は、このように言って下さいます。

 イエス様はどのような方か。イザヤ書53章3~4節にはこう書かれています(口語訳)。「悲しみの人で、病を知っていた。~真に彼はわれわれの病を負い、我々の悲しみを担った。」「慈しみ深き作詞した19世紀のアメリカ人・ジョセフ・スクライヴェンという男性は、二度も婚約者に先立たれる試練を経験したそうです(大塚野百合『賛美歌・聖歌ものがたり』創元社、1997年、119ページ以下)。彼の悲しみを共に悲しんだのは、彼の母でしたが、彼は母を慰めるためにこの歌詞を作ったそうです。彼自身は、祈りの中で自分の悲しみを率直に神に訴え、祈りの中でイエス・キリストの慰め、聖霊の慰めを受けて、何とか耐えることができたようです。その祈りの中で、彼は悲しみの人、私たちの悲しみを担って下さるイエス様がどんな方かを深く体験したようです。ヘブライ人への手紙2、3章によると、イエス・キリストは次のような方です。「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。」「ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」このようなイエス・キリストに、私たちも「悩み苦しみを、隠さず述べて、重荷のすべてを御手にゆだねよ」と、作詞者ジョセフ・スクライヴェンは、私たちに語ってくれています。

 ところで日本には。今から102年前の大正10年に、賀川豊彦という著名な牧師が「イエスの友会」という会を作り、今もあるそうです。当時の日本の社会は暗い状況にあったようです。「イエスの友会」は、その中に少しでも灯をともそうと、奉仕したそうです。102年前と言えば、2年後に関東大震災がのです。「イエスの友会」は、関東大震災で被災した人たちの救援にも奔走したに違いありません。「イエスの友会」の目指すことは次の5点でした。「①イエスにありて敬虔なること。 ②貧しき者の友となりて労働を愛すること。 ③世界平和のために努力すること。 ④純潔なる生活を貴ぶこと。 ⑤社会奉仕を旨とすること。」私たちを友と呼んで信頼し愛して下さるイエス様の愛に応えて、このように生きる、イエス様の友として、貧しさや病に苦しむ隣人に奉仕しようとしたのです。私たちもイエス様の愛に感謝し、試練の時は神様の祈る中で、イエス・キリストの愛と慰めをいただき、自分にできる形で隣人への奉仕も、少しずつでもさせていただけると大変感謝です。アーメン。

2023-10-28 23:15:06(土)
「弁護者なる聖霊」 2023年10月29日(日)降誕前第9主日礼拝 説教
順序:招詞 マルコ福音書16:15~16,頌栄29、主の祈り,交読詩編111、使徒信条、讃美歌21・377、聖書 イザヤ書32:15~20(旧約p.1112),ヨハネ福音書14:15~31(新約p.197)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌342、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書32:15~20) ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう。しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。すべての水のほとりに種を蒔き/牛やろばを自由に放つあなたたちは/なんと幸いなことか。

(ヨハネ福音書14:15~31)
 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

(説教) 本日は、降誕前第9主日礼拝です。説教題は「弁護者なる聖霊」です。新約聖書は、ヨハネ福音書14章1~31節です。小見出しは、「聖霊を与える約束」。

 ヨハネ福音書14、15、16章はイエス様の長い長い説教です。イエス様の説教がこれほど長く、ほとんど途切れないで続くのは、この個所だけけではないかと思います。十字架を目の前にして弟子たちに大切なことを語っておられます。15節「あなた方は、私を愛しているならば、私の掟を守る。」そして16節以下「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなた方はこの霊を知っている。この霊があなた方と共におり、これからも、あなた方の内にいるからである。」

 聖霊のことです。「父(父なる神様)は別の弁護者を遣わされる。」聖霊は人格(神格)をお持ちの方で、父なる神様・子なる神キリストと別ですが、しかし一体の神様です。三位一体ですね。私たちが用いているこの新共同訳聖書では「弁護者」、口語訳聖書では「助け主」と訳され、新改訳聖書でも「助け主」です。マルティン・ルターは「慰め主」と訳したそうです。

 「弁護者」は、新約聖書の元のギリシア語で「パラクレートス」です。「パラクレートス」とは、「傍らに招かれた人」の意味です。傍らに招かれて何をする人かと言うと、裁判において弁護してくれる人です。だから弁護者と訳されたのですね。弁護士、弁護者は被告にとっては、大変頼り甲斐のある存在です。弁護して助けて下さるのですから「助け主」という訳も可能になります。ヨハネの手紙(一)2章1節に、次の御言葉があります。「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなた方が罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」ここではイエス・キリストが弁護者と呼ばれています。聖霊とイエス様は一体ですから、両者とも弁護者であるのは自然なことです。イエス様は、最後の審判の時の裁き主であると同時に、弁護者でもあるのです。イエス様は私たちを弁護して、私たちを無罪判決へと導いて下さいます。私たち罪人(つみびと)にとって、これは本当にほっとすることです。
この意味で真の弁護者こそ、真の慰め主にほかなりません。

 イエス様は十字架と復活を経て、天に昇られますが、弟子たちにその代わりにイエス様の霊であり、生ける最高の宝である聖霊を注いで下さるのです。ですから私たちは一人きりでないのです。「この霊があなた方と共におり、これからも、あなた方の内にいるからである。私は、あなた方をみなしごにはしておかない。あなた方の所に戻って来る。」戻って来るということは、十字架の死の後に復活して戻って来る、あるいは聖霊として戻って来る、あるいは世の終わり、神の国の完成の時に、再臨という形で復活のイエス様が地上に戻ってこられる。この3つがあり得ます。いずれにしても聖霊が与えられるので、神様がいつも私たちと共におられるのです。

 「慰め」と言う言葉を聞くと、『ハイデルベルク信仰問答』という信仰問答の問い1とその答えを連想することもできます。プロテスタントの世界では割に有名な問いと答えです。問「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」答「私が私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって私のすべての罪を完全い償い、悪魔のあらゆる力から私を解放して下さいました。^。」これが私たちの「ただ一つの真の慰め、真の喜び」である。「洗礼を受けた私たちはもはや私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものになっているこの事実が、私たちのただ一つの真の慰め、真の喜びである。」実際、コリントの信徒への手紙(一)6章15節には、こう書いてあります。「あなた方は、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。」19、20節にはこうあります。「あなた方の体(全身全霊)は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです(神の所有になっている)。あなた方は代価を払って(つまりイエス様の十字架の犠牲のお陰で)買い取られたのです(そして神の所有になっている)。」これが生きるにも死ぬにも、変わらない私たちのただ一つの真の慰め、真の喜び、真の平安。

 19節「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなた方は私を見る。」復活のイエス様に出会い、その後、イエス様が天に昇られても、再臨の時にイエス様に顔と顔とを合わせてお会いするということです。「私が生きているので、あなた方も生きることになる。」この場合の生きるとは、ただ生物学的に生存しているということではななく、イエス様に似た愛に生きているということです。宗教改革者マルティン・ルターがこの御言葉を大切にしたそうです。ルターはよき牧会者でしたから、間もなく臨終を迎える方のベッドの横で、このイエス様の御言葉を語りかけたそうです。「私(イエス様)が生きている(復活して生きている)ので、あなた方も生きることになる」と。地上の命が終わっても、あなたには聖霊が与えられており、イエス様の永遠の命が注がれているので、地上の命が終わってもあなたはイエス様と共に永遠に生きる」というメッセージです。ルターは、このように耳元で語って、臨終を迎える方々に真の慰めを与え、励ましたということです。それを知って、私も行わせていただきました。間もなく臨終を迎えると思われる方の耳元で、「私(イエス様)が生きているので、あなた方も生きることになる」と語らせていただきました。耳は最後まで聞こえていると聞くので、きっと聞こえたと思っています。

 20~21節「かの日には、私が父の内におり、あなた方が私の内におり、私もあなた方の内にいることが、あなた方に分かる。私の掟(互いに愛し合いなさい)を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す。」ここには愛(アガペー)という言葉が4回も出て来ます。父なる神様が私たちを愛され、イエス様が私たちを愛され、私たちもイエス様を愛する。神様は父・子・聖霊なる三位一体の神様で、父なる神様・子なる神キリスト・聖霊なる神様は、互いに完全な愛により完全に一体です。そして三位一体の神様と私たちの間も、愛による深い交流の中にあるのですね。23~24節でも、イエス様は同様のことを述べておられると言えます。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人の所に行き、一緒に住む。私を愛さない者は、私の言葉を守らない。あなた方が聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである。」父なる神様とイエス様が私たちと共に住んで下さる。これが天国です。ヨハネの黙示録21章3節に、次のように書かれている通りです。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 25~26節。「私は、あなた方といた時に、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方に全てのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせて下さる。」聖霊は、聖書を分からせて下さる方です。聖書を読んでいたり、祈っているときに、よきひらめきを与えて下さり、関係深い別の聖書の御言葉を思い出させて下さる霊です。頭と心にひらめいたことが全部聖霊の導きとは断言できないので吟味が必要ですが、それでもやはり、聖霊はイエス様の話されたことを思い出させて下さり、聖書の御言葉や説教の意味を分からせて下さる神の生ける霊です。そしてイエス・キリストこそ、真の神の子であり救い主だという信仰を与えて下さる霊です。コリントの信徒への手紙(一)12章3節に、「神の霊によって語る人は誰も、『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ誰も、『イエスは主である』とは言えないのです」と書かれている通りです。

 27節「私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。」これはイエス様が、私たちの罪人(つみびと)の足を洗って下さったという平和です。ですから他からは得られない平和です。言い換えると、イエス様が私たち罪人(つみびと)のために十字架に架かって、父なる神様と私たちの間に真の和解をもたらして下さった平和です。聖餐式によって確認される、全ての罪を赦されて、永遠の命をいただいている根本的な平和です。

 「心を騒がせるな。おびえるな。『私は去って行くが、また、あなた方の所へ戻って来る』と言ったのをあなた方は聞いた。私を愛しているなら、私が父の元に行くのを喜んでくれるはずだ。父は私よりも偉大な方だからである。」「父は私よりも偉大な方」という言葉を元に、昔ある人々は「イエス様は神ではない」と主張して来ました。しかしイエス・キリストが神であることは、ヨハネ福音書1章1節、「言(ロゴス)=イエス・キリスト=は神であった」等の御言葉から間違いないことです。イエス様が「父は私よりも偉大な方」と言われたのは、イエス様が謙遜な方なので、神の子として、子なる神キリストとして、父なる神様を愛し崇める意図でこう言われたのだと思います。この御言葉から「イエス・キリストは神ではない」という結論を引き出すことは間違いで、イエスキリストが神であることは明らかです。  

 29節以下「事が起こったときに、あなた方が信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなた方と多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼は私をどうすることもできない。私が父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」「世の支配者が来る。」悪魔、サタンが来るのです。イエス様の十字架の受難の時が、目の前に来ています。「だが、彼は私をどうすることもできない。」イエス様は悪魔の攻撃に敗れて十字架で死ぬのではないのです。悪魔が勝利しているように見えて、実は、イエス様の十字架によって私たち罪人(つみびと)の全ての罪の問題を解決しようとする神様の最も深いご計画が進んでいます。悪魔が主導権を握っているように見えて、実は父なる神様が主導権を握っておられるのです。イエス様は悪魔に負けてではなく、自ら進んで父なる神様に服従して十字架に向かわれるのです。ですから決然と「さあ、立て。ここから出かけよう」と語られます。

 聖霊に関する御言葉で、イザヤ書32章15節以下も朗読していただきました。聖霊が与えて下さるのは公平、正義、平和、安らかな信頼、休息だと記されています。私たちにも、ウクライナにも、イスラエルとパレスチナにも聖霊による公平、正義、平和、安らかな信頼、休息が注がれるように、切に祈ります。19世紀の中盤、明治時代の最初に、横浜で伝道が行われ始めた頃、ペンテコステ的な聖霊が降る驚くべき出来事があり、そこから横浜公会(当時は公会と呼び、教派に分かれないようにしようとした)が生まれたと聞きます。今の横浜海岸教会、日本で初めてのプロテスタント教会とされます。数年前に横浜海岸教会を見学に行ったとき、中に入れませんでしたが、外の掲示板にこの御言葉が記されていました。イザヤ書32章15節。聖霊による真の慰め、イエス様が与える真の平安に満たされる一周間であるように祈りましょう。アーメン。

2023-10-21 19:14:41(土)
説教「キリストこそ道、真理、命」2023年10月22日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第64回)
  順序:招詞 マルコ福音書16:15~16,頌栄24、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・463、聖書 ヨハネ福音書13:36~14:15(新約p.196)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌505、献金、頌栄27、祝祷。 

(聖書 ヨハネ福音書14章1~15節)
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

(説教) 本日は、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第64回)です。説教題は「キリストこそ道、真理、命」です。新約聖書は、ヨハネ福音書13章36~14章12節です。小見出しは、「ペトロの離反を予告する」と「イエスは父に至る道」です。先週の週報に記載した予告では、14章1節から14節にしていました。すると13章36~38節を飛ばすことになります。その箇所は後日、ペトロがイエス様を知らないと三度言ってしまう場面と合わせて読むつもりでしたが、説教の準備をする中で思いが変わり、本日は13章36節から読むことに致しました。

 イエス様はそれより前の13章33節で弟子たちに言われました。「いましばらく、私はあなた方と共にいる。あなた方は私を探すだろう。『私が行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなた方にも同じことを言っておく。」これを聞いたシモン・ペトロが尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエス様は答えられます。「私の行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」イエス様が進まれる十字架の道行きに、ペトロは今ついて来ることができないと言われたのです。ペトロはイエス様を愛していましたが、それでもペトロの自力の決心だけでは限界がありました。私たちはなかなか、自分の自己中心を超えて、イエス様に従うことが難しいですね。イエス様は、ペトロ自身もまだ知らなかったペトロの自己愛の深さを、見抜いておられました。それで言われました。「私のために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまで、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう。」イエス様に助けていただかないと、私たちはイエス様に従えないということではないでしょうか。

 14章の1節「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。」イエス様がどこかに行かれると聞いて、弟子たちの心に動揺が走りました。それでイエス様がこう言われたのです。イエス様はこの後、十字架の死を通って復活され、天に昇られます。その天のことを「私の父の家」と呼ばれます。何のために天に昇られるかを語られます。2節「私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる。」

 天国には住む所がたくさんあると言われます。イエス様は天に昇って、私たちのために居場所を確保して下さいます。「行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私の元に迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる。」これは世の終わりにイエス・キリストが天から地上にもう一度来られる再臨を意味すると言えます。初代教会の人々は、イエス様の再臨は、初代教会の時代に起こると考えていましたが、約2000年たった今も実現していません。それは全ての人が罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じて救われることを願って、父なる神様がイエス様の再臨を引き延ばして下さっているからです。しかしいずれ必ずイエス様の再臨は起こります。私たちが地上で生きている間に再臨が起こらない場合は、イエス様は天で私たちを迎えて下さいます。そしてイエス様がおられる天に、私たちもいることになります。」

 4節「私がどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている。」すると弟子のトマスが正直に質問します。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」この質問の質問のお陰で、私たちはイエス様の重要な真理の御言葉を聞くことができました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」「私は道であり、真理であり、命である。」イエス・キリストは神の子です。このような断言的な言葉は、神の子でないと言うことができません。私たち普通の人間がこのようなことを言っても、誰も信じてくれないでしょう。マタイ福音書7章に、イエス様が説教されると群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とあります。「私は道であり、真理であり、命である」も、普通の人間や学者には言えない権威ある言葉です。神の子にして初めて言える言葉です。イエス様の本質をストレートに言い表す言葉です。

 イエス様は、このヨハネ福音書で、ご自分の本質をズバリ言い表す言葉を多く語られるのです。「私が命のパンである。」「私は世の光である。」「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。」これらの宣言は皆、イエス・キリストが真の神の子であることを示しています。これらの言い方は皆「私は〇〇である」という言い方です。英語だと「アイ アム〇〇」という言い方です。新約聖書はギリシア語で書かれており、これをギリシア語で言うと「エゴー エイミー〇〇」という言い方です。よく申し上げることですが、この言い方は旧約聖書の出エジプト記3章14節で、神様がモーセという指導者に自己紹介なさる場面と深く関わっています。そこにはこう書いてあります。「神はモーセに、『私はある。私はあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「私はある」という方が、私をあなたたちに遣わされたのだと。』」「私はある」とは「私は存在する」ということで、英語では「アイ アム」になりますし、ギリシア語では「エゴー エイミ―」になります。自己中心のことをエゴイズムと言いますが、ギリシア語のエゴ―にはそのような悪い意味はなく、単に「私」の意味です。聖書では「エゴー・エイミー」は、天地創造をなさった神様の「私はある。私は存在する、私は生きている」の宣言です。イエス様が何回も「エゴ―・エイミー〇〇」と言われたことは、「私が旧約聖書に登場する天地創造を行った神だ」と自己宣言しておられるということです。本日の御言葉もそうです。「私は道であり、真理であり、命である」の御言葉にも「エゴ―・エイミー」が含まれているので、イエス様はここでも「私こそ天地創造を行った神だ」とも宣言しておられるのです。

 そして大切なことは、「私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」と言われたことです。神様から見れば、私たちは皆、罪人(つみびと)です。罪人(つみびと)なので、父なる神様に直接近づくことはできないのです。父なる神様は完全に聖なる方だからです。完全に聖なる方に罪人(つみびと)が近づけば、撃たれて死んでしまいます。そこで仲介者が必要です。その仲介者として誕生して下さった方がイエス様です。仲介者とは道である方です。私たちはイエス様という道(架け橋)を通って初めて、父なる神様に近づくことができます。

 思いきって終わりの方の13節を見ると、イエス様が祈りについて教えておられます。「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって何かを願うならば、私がかなえてあげよう」と約束して下さいました。父なる神様に直接祈れとは言われませんでした。「私の名によって願いなさい(祈りなさい)」と言われました。イエス様が道(架け橋)だからです。「道である私の名を通して祈りなさい」と言われたのですね。それで私たちは祈りの最後に、「主イエス・キリストの御名(お名前)によって(を通して)祈ります」と言います。「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。私の名によって何かを願うならば、私がかなえてあげよう」と言われた約束を信じて、こう祈ります。イエス様は次の15章でも、「私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである」と言われます。ですから私たちは「イエス様のお名前によって祈ることは、必ず父なる神様に聴いていただける」と確信して、イエス様のお名前を通して祈ります。但し、あまりにも自分勝手な祈りは聴かれないと思っています。

 戻って7節「あなた方が私を知っているなら、私の父をも知ることになる。今から、あなた方は父を知る。いや、既に父を見ている。」今度はフィリポが、「主よ、私たちに御父を示して下さい。そうすれば満足できます」と述べます。この質問はイエス様に叱られるのですが、しかしこの質問のお陰で、私たちはイエス様の深い真理の御言葉を聞くことができるようになりました。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示し下さい』と言うのか。私が父の内におり、父が私の内におられるのを信じないのか。」イエス様は10章で、「私と父とは一つである」と言われました。そして聖霊を加えて、父なる神様と子なる神イエス・キリストと、聖霊なる神様が一体です。

 「私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである。私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。私が父のもとへ行くからである。私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」私たちがイエス様が行う業よりももっと大きな業を行うようになるとは驚きですが、イエス様が父のおられる天から私たちに聖霊を注いで、私たちを助けて下さるから、御心に適う業を行わせて下さるということでしょう。

 「私は道であり、真理であり、命である。」本日のテーマは「道」だと言えますね。イエス様の道、そして私たちがイエス様に従う道。ある著名な牧師は、牧師たちに「底辺に立て」と言われました。それを思い出し、まだまだ底辺に立てていない私であることを思います。

 先週、私のもとに『青木優牧師遺稿集 共に歩む その二』という本が送られて来ました。ご夫人の青木道代さんが編集なさった本です。青木牧師は、西東京教区の調布柴崎伝道所の牧師で、随分前に東久留米教会でも説教されたと聞いた記憶があります。青木先生は5年ほど前に92歳で天に召されました。青木先生は、医者を目指して現在の岡山大学医学部を卒業され、インターン中に結核による眼底出血のため、両眼を失明され、人生が一変したそうです。それなら心のケアをするキリスト教の伝道者、牧師になりたいと、点字を覚え、杖で歩くことを覚え、聖書を学び、東京神学大学に入り、日本キリスト教団の牧師となられました。

 青木牧師ご自身の言葉は次の通りです。「『なぜ見えなくなったのだ』という問いが、日々私の胸中に溢れた。それは私の『生きていることの意味』を問うことでもあった。私自身も周囲の者たちも途方に暮れている闇の時、私は聖書に出会い、新しい光を発見した。その光とは、ヨハネ福音書9章3節以下のイエス・キリストの言葉であった。『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが彼の上に現れるためである。』この御言葉は私に非常な驚きを与え、その後の私の人生を導き照らす光となった。その光に従って、私はそれからの人生を懸命に歩き始めた。その道は今振り返ってみると確かに手応えのある道であった。生きるに足りる道であった。~私の人生は、不自由はつきまとっているが、手応えのある、生きていてよかったと確かに言い得る人生だったと思う。」このように、ご自分の生きて来られた道を振り返っておられます。

 よき伴侶として共に歩まれたご夫人は次のように書いておられます。「失明して彼は初めて未知の友達を得ました。地域の失明者の仲間と出会ったのです。クリスチャンの失明者もおられ、多くの偉大な失明者の先輩とその活躍の歴史を知ることができました。赴任した教会の二階の一間を会場に、その町の盲人の集いを開き、日本の盲人の、ひいては障がい者たちの世界がまだまだ開かれていないことを知りましたし、町の事情をいろいろ学ぶこともできました。次に赴任した教会で、幼児教育施設設立の希望があり、15、6名の幼い子どもたちとの幼児教育活動が始まりました。失明者も幼い子どもたちも、社会的には弱い立場にあります。次の年からは目の不自由な子の入園がありました。小児麻痺による手足の不自由な子も、知的ハンディーを持つ子も入園して来ました。工夫して、共に遊べる方法を生み出し、嬉々として共に生活しました。」東京に移られてからも、障がいをもつ子どもたちとの活動に力を入れて来られ、今は広島県の呉市のホームにおられるようです。こうしてご夫婦で、イエス様の背中を見つめて、イエス様と共に歩む道を生きて来られました。とてもすばらしいと思います。

 もう一人、ドイツの牧師だったボンヘッファーという人のことを短くお話したいと思います。ボンヘッファーは、第二次大戦中、アメリカの神学校に留学していました。アメリカの友人たちは、戦争が終わるまでアメリカにいた方がいいと言ってくれました。しかし彼は、祖国がヒットラーに支配されているとき、自分はドイツに帰って、ドイツの心ある人たちと苦難を共にすべきだと考え、ドイツに戻ります。そしてヒットラーを倒そうとする人々の仲間に入り、密かな活動をしますが、逮捕され39才で死刑になります。ボンヘッファーは聖書を読んで、キリストの呼びかけを感じ取ったのです。テモテへの手紙(二)4章21節です。使徒パウロが愛弟子のテモテに呼びかける言葉を読んだのです。「冬になる前にぜひ来て下さい。」「冬になる前にぜひ来て下さい。」彼はこれを、イエス様による自分への招きのメッセージと聴き取ったのです。「今のうちに早くドイツに戻ってほしい。」安全なアメリカではなく、祖国ドイツに戻ってイエス様に従う決心をしました。彼にとってイエス様に従う道は、ドイツに帰って、ドイツの心ある人々と共にヒットラーに抵抗する道だたのです。その結果、ヒットラー政権に逮捕されて死刑になりましたが、死に至るまで忠実にイエス・キリストに従った、キリストの証人となりました。

 私たちは非常に大きな働きはできませんが、しかしそれぞれの持ち場にあって、自分にできる形で、イエス様を宣べ伝え、イエス様に従って参りましょう。「私は道であり、真理であり、命である」と宣言されるイエス様を見つめながら。アーメン。

2023-10-14 23:02:00(土)
「天地創造の前からの愛、そして希望」2023年10月15日(日)修養会礼拝
順序:招詞 マルコ福音書16:15~16,頌栄28、主の祈り,交読詩編23、使徒信条、讃美歌21・547、聖書 エフェソの信徒への手紙1:1~2:10(新約p.352)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌573、献金、頌栄27、祝祷。 


(説教) 本日は、修養会の礼拝です。説教題は「天地創造の前からの愛、そして希望」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙1章1節より2章10節です。小見出しは、挨拶を除けば3つです。「神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる」、「パウロの祈り」、「死から命へ」です。

 エフェソの信徒への手紙の6章20節に、「私(パウロ)は福音の使者として鎖につながれています」とあるので、この手紙はパウロの獄中書簡の1つとされています。学者の中にはいくつかの理由を挙げて、この手紙はパウロが書いたものではないという説を唱える人もいるようですが、私としては、この手紙をパウロの獄中書簡の1つとして読んでゆこうと思っています。パウロのエフェソ伝道については、使徒言行録19章に詳しく記されています。本日は、そこをも読んでご出席いただくようにお願い致しました。そうお願いしておいて申し訳ないのですが、この手紙を読んでも、使徒言行録19章に出て来るエフェソ伝道の様子と直接関連したことはほとんど見つからないと感じます。これは不思議なことですが、事実です。この手紙は、パウロの晩年に書かれたと思われます。そのせいか、この手紙はあまり具体的なことを語りません。非常に壮大なスケールで、霊的な真理を語っています。

 3節の後半を見ると、「神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たして下さいました」とあります。霊的な祝福は、物質的でない祝福です。それは聖霊、永遠の命、復活の体、天国です。私たちはこの地上で必ずしも、物質的に多くのものを持っていなくても、今既に多くの霊的な祝福で祝福されています。
 
 4節が東久留米教会の今年度の標語聖句ですね。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」「天地」は原文ではコスモスというギリシア語です。宇宙あるいは世界とも訳せると思います。「創造」は原文で「基礎を据える」という言葉です。「宇宙の基礎を据える前に、神は私たちを愛して、御自分の前に聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」天地創造というと、私たちは創世記1章を思い出します。「初めに、神は天地を創造された。」創世記はヘブライ語ですが、ヘブライ語では「天」は複数形です。「地」は単数形です。ですから正確には「初めに、神は諸々の天と地を創造された」となります。当時、天には複数の層があると考えられていたために、「天」は複数形であるようです。「初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」私は、この時に神様が宇宙(空間)と時間をお造りになったと信じています。科学では、地球は約45憶年前にでき、宇宙は卵のように非常に小さかったが、約138億年前のBig Bang という爆発によって膨張を開始し、今も膨張していると言います。宇宙の観測と計算に基づいてそう唱えられているので、まずは信頼できる説ではないかと思います。そうだとすると、私たちは宇宙が始まった約138憶年より前から、神様に愛され、キリストにおいて選ばれていることになります。実に壮大なことです。先ほどの讃美歌で歌ったように、まさに「生まれる前から神様に愛されて来た友達」の一人一人が私たちであることになります。「生まれる前から」、それも天地創造の前から神様に愛されていたのです。そのような気の遠くなるような昔から神様の愛されて来たと知って、私たちは驚きます。私たちが天地創造の前から神様に愛されていることを暗示する御言葉として、マタイ福音書25章31節以下の「すべての民族を裁く」の場面が挙げられます。そこでイエス様は、右側により分けられた人々にこう言われるのです。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」イエス様の兄弟である最も小さい者の一人に愛の業を行った人々は、イエス様にこう言っていただけるのです。

 「生まれる前から神様に愛されていた」については、詩編139編もそれを語っていると思います。13節に「あなた(神様)は私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立てて下さった。16節「胎児であった私を、あなた(神様)の目は見ておられた。私の日々はあなたの書に全て記されている。まだその一日も造られないうちから。」

 創世記1章にはイエス・キリストは登場しません。しかしヨハネによる福音書1章1節には、「初めに(天地創造の初めに)言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。この言はイエス・キリストを指していますから、実はキリストは天地創造の初めから生きておられました。キリストは永遠の最初から生きておられる神なのです。私たちも、天地創造の前から、私たちが母親の胎内に宿る前から、神様は私たちを愛し、私たちが地上に生まれることを計画しておられたことが分かります。5節「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」まとめると、神様の前で聖なる者、汚れのない者にするためにキリストにおいて選ばれ、イエス・キリストによって神の子にするために前もって定められている私たちである、ということになります。その最終目的は、6節にある通り、「神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、私たちがたたえるためです」となります。私たちが愛され、造られ、十字架によって罪を赦され、永遠の命を与えられた目的は、私たちが神様の恵みを讃美し、神様をたたえるためだということが分かります。

 7節は、イエス様の十字架の血について語ります。「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは神の豊かな恵みによるものです。」
イエス様の十字架の血のお陰で、私たちは全ての罪を赦され、贖われて神の所有となった。血のお陰でというと、気持ち悪いと感じる人もおり、分かりにくいかもいしれません。ご存じの通り、聖書では血は命そのものです。新約聖書のヘブライ人への手紙には、「血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない」と記されています。旧約聖書の時代は、神様に私たち人間の罪を赦していただくために、神殿でおそらく毎日、いけにえの動物を献げていました。殺して血を流してから献げるのですから、実に強烈なことです。神様に人間の罪を赦していただくために、動物に死んでもらっていました。しかし人間の罪を赦していただくためには、本当は動物の血と命では足りません。そこで真の神の子であり真の人間であって、全く罪のないイエス・キリストが尊い血を流して下さらないと、私たち人間の罪が本当に赦されることは不可能でした。使徒言行録20章には、イエス様の使徒パウロがまさにエフェソの教会の長老たちに別れを告げる時に、長老たちにこう述べたと書かれています。「どうか、あなた方自身と群れ全体とに気を配って下さい。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなた方をこの群れの監督者に任命なさったのです。」その通り、教会は神がイエス・キリストの十字架の犠牲の血によって神の所有となった群れなのです。そのことを確認するために毎月聖餐式を行うのですね。イエス様の体を表すパン(ウエハース)とイエス様の血潮を表すぶどう汁を食べ飲みます。それによってイエス様の十字架と復活のお陰で、私たちが神の所有となっている恵みの事実を確認します。ですので、ぜひすべての方々に洗礼の恵みに入っていただきたいと、神様と私たちは願っています。先日も申したように、キリスト教のある教派では、イエス様の十字架の有難い血を「宝血、ご宝血」と呼ぶそうです。私たちはこの用語を用いませんが、「なるほど」と思います。この表現によって、私たちを救って下さったイエス様の十字架の血潮への限りなき感謝を表明しておられると思うのです。

 エフェソに戻り、8節には「秘められた計画」という言葉が出て来ます。これはパウロの手紙にしばしば出て来る重要な言葉と思います。私はこれは、イエス様の十字架と復活によって私たち異邦人(ユダヤ人以外)を救おうとなさる神様の深いご計画のことと思います。神の子の十字架の犠牲によって私たち罪人(つみびと)を救おうという計画は、私たち人間から見れば、全く思いもよらないご計画、驚くべきご計画と思います。旧約聖書の時代には人間たちに、イザヤ書53章等によって暗示はされていましたが、隠されていたご計画、秘密にされていたご計画です。しかし今や「秘められた計画」ではなく、新約聖書に公然と書かれているご計画です。全世界に公にされ、全ての人に公然と宣べ伝えられる必要のあるご計画です。ですから教会の礼拝はすべての人に開かれた公の礼拝です。内密の礼拝ではありません。説教題も会堂前に公開しています。

 少し飛んで13節「あなた方もまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人の中には、目に見えないが神の清き霊である聖霊が生きて住んでおられます。聖霊が住んでおられれば、その人は救われており、必ず天国に入ります。「聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証」だと明記されています。聖霊は神様の命であり、神様その方ですから、聖霊をいただいていることこそ、最大最高の祝福、宝です。天国という最大の希望が約束されるからです。3節に私たちが天のあらゆる霊的な祝福で満たされたとありますが、その祝福の最たるものは聖霊です。

 次の小見出しに進みます。「パウロの祈り。」17節「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなた方に知恵と啓示の霊(聖霊)を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いて下さるように、そして神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たち(イエス様を信じる者たち)の受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。」イエス様はヨハネ福音書17章で、「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」神を知る、イエス様を知るとは、頭の知識で知るだけでは足りず、全身全霊をもって知ることと思います。そうなると一生の重要な課題ですね。人間側でできることは。一生懸命聖書を読み、一生懸命祈り、一生懸命礼拝し聖餐に与かり、一生懸命に御言葉を実行することで、父なる神様とイエス様を次第に深く知ることができると信じます。このような私たちの努力の前に、既に約2000年前から、イエス様の愛の犠牲の十字架の死と復活の恵みが私たちに提供されている、神様の大きな愛を思います。

 「神の招きによってどのような希望(すばらしい希望)が与えらえているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。」パウロはその希望の天国に、短い期間入る経験をしたのですね。コリントの信徒への手紙(二)12章で書いています。「14年前に第三の天に、楽園に引き上げられた。」最も高い天でしょう。「あの啓示されたことがあまりにもすばらしい。」あまりにもすばらしかったと告白しています。地上で多くの試練があっても、いずれ必ずそこに入れていただく確かな希望をいただいているので、感謝です。

 19節では、神様の力強さが強調されています。「また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせて下さるように。」ここを原文で見ると、デュナミス、エネルゲイアという言葉が出て来ます。デュナミスは力と訳されます。デュナミスは、英語のダイナマイトの語源です。エネルゲイアは明らかにエネルギーの語源でしょう。つまり私たち信仰者に与えられる神様の力はダイナマイトのように力強く、エネルギーに満ちているということです。20節「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」とあります。死者を復活させるには、巨大な力が必要に違いありません。父なる神様はダイナマイトように絶大な愛の力をイエス様の上に注がれ、イエス様は父なる神様の偉大な愛の力によって復活させられました。ダイナマイトは破壊に使われますが、神の愛の力は命の創造(造り出すこと)に用いられます。私たちにも将来必ず復活の新しい体(今の体とは違う)が与えらるのですが、その時も神様の偉大な愛の力が働くに違いありません。 右の座。味方、とりなすため。

 そして神様は愛の力によってキリストを、「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」どんな王や皇帝よりも上、この世を支配しようとする悪魔より上に置かれたのです。これは、イエス様が「王の王、主の主」であることを示します。22節「神はまた、全てのものをキリストの足元に従わせ、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」キリストは教会の頭、そして全宇宙の頭です。これも非常に壮大な真理ですね。このことは今は目に明確に見えませんが、将来必ず誰の目にも明らかな現実になります。21~23節に「全て」という言葉が5回も出て来ます。キリストは全ての存在、全宇宙のトップだという壮大な真理が強調されています。

 23節「教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です。」教会はイエス・キリストが満ちあふれている所です。神様が満ちあふれている所です。神の清き霊である聖霊が満ちあふれている所です。クリスチャン一人一人の中に聖霊が生きて住んでおられ、クリスチャン一人一人は「キリストに似た者」です。まだ罪が残っていますが、それでも皆ある程度は「キリストに似た者」です。人格がです。教会は「キリストに似た者」が満ちあふれている所です。地上にいる限り完全にキリストに似た者にはなれませんが、それでも教会は「キリストに似た者」が満ちあふれている所です。現実には「少しキリストに似ている人」と「だいぶキリストに似ている人」が混在している所と言えます。コリントの信徒への手紙(一)には、教会の礼拝について、このように書かれています。「信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心に内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに神はあなた方の内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。』」私たちの礼拝が、毎週このような礼拝であるように、皆でお祈りする必要が非常にあります。礼拝に出席した方が「本当にここには生きておられる本当の神様がおられます」と実感し、思わず告白するような、神の臨在(そこにおられること)に満ちあふれる霊的な礼拝を、毎週献げることができるように、全員で祈る必要が大です。エフェソ書の説教集を書いたある牧師は言います。「洗礼を受けることを軽んじてはなりません。聖餐を受けることをおろそかにしてはなりません。それらは、御言葉の説教と共に、それ以上に、神の力強い活動であり、キリストの恵みの充満であるからであります。」
 
 3つめの小見出しは、「死から命へ」です。父なる神様が私たちに、イエス・キリストによって与えて下さった恵みが、どんなに大きな恵みかが、真に力強く記されています。1節「さて、あなた方は、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」これは私たちが、神様に教えられて、聖書に教えられて、初めて気づくことです。私たちはイエス・キリストを救い主と信じて、罪の赦しの恵みを受ける前も、自分が死んでいたとまでは思わないでしょう。むしろ一生懸命生きていたと思う方の方が多いのではないでしょうか。しかしはっきり言えば、ここに書いてある通り、「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」のです。人類の先祖(代表とも言える)エバとアダムが、悪魔の誘惑に負けて、神様の御言葉に背きましたが、その時以来、私たち人間は皆、罪(原罪)を背負った状態で生まれて来るのです。旧約聖書の創世期は、エバとアダムが神様に背く罪を犯したために、神様はエバとアダムをエデンの園(楽園)から追放したと書いています。これによって人類は、神様からの祝福を失い、罪と苦労と死を帯びて、生きるしかないようになりました。実際私たちは、人を殺すような罪を犯すことがなくても、日々ぶつぶつ不平不満を言い、あまり感謝せず、時に人を心の中で嫌ったり憎んだり、悪口を言って過ごしていることがあると思います。それを今日の御言葉は、私たちが「自分の過ちと罪のために死んでいた」と言い当てています。

 2節「この世を支配する者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊(悪霊、悪魔)に従い、過ちを罪を犯して歩んでいました。」「この世を支配する者、この世の支配者」は悪魔です。残念ながら悪魔も生きて働いています。真の神様が、この世界を最終的に支配しておられます。しかし悪魔も働いており、悪魔はエバを誘惑して神様に背く罪を犯させることに成功しました。それ以来、悪魔が人間を支配しています。しかし人間は悪魔の支配に反抗し、神様に従って生きるように、神様から力強く招かれているのです。私たちは、これまでの罪を悔い改めて真の神様に従い、悪魔には早く滅びてほしいと願っています。悪魔は、イエス・キリストが十字架で死なれ、復活したときに、イエス・キリストに完全に敗れました。今も活動していますが、悪魔の敗北は決定済みで、イエス・キリストがもう一度地上に来られて神の国が完成する時に、悪魔が完全に滅びることは決定済です。悪魔は今は最後のあがきをしているので私たちは油断せず、悪魔の誘惑を退けながら生きるのです。

 3~4節も、私たちの過去の生き方を述べています。「私たちは皆、こういう者たち(悪魔に従って、過ちと罪を犯している者たち)の中にいて、以前は肉(自己中心)の欲望の赴くままに生活し、肉や心(自己中心の心)の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」手厳しい御言葉ですが、この通りなのだと思います。神様は罪人(つみびと)である私たちを憐れんで愛しておられますが、罪そのものを明確に憎んでおられます。私たちも毎日少しずつ罪を犯して生きて来たので、「ほかの人々と同ように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」そのままでは、私たちは滅びるほかなかったのです。

 ところが続く4節の最初に「しかし」とあります。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生は、聖書の中のこのようなしかしを「大いなるしかし」と呼ばれたと聴きました。この「しかし」が、ここまでのマイナスの流れをひっくり返すのですから、「希望のしかし」です。4~6節「しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、―あなた方の救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。」憐れみ豊かな神は、私たち罪によって死んでいた者たちを、この上なく愛して下さり、その愛によって独り子イエス・キリストを地上に誕生させ、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負わせて、十字架の死に追いやりました。ここに真の愛があります。神に敵対していた私たちを敢えて愛した愛ですから、敵を愛する愛です。こうしてイエス様の十字架の犠牲の愛のお陰で、私たちは復活されたイエス様と共に、復活の命に生きる者とされたのです。罪を悔い改めて洗礼を受けることで、私たち罪人(つみびと)は、キリストと共に新しい復活の命に生き始めることができます。5節を文語訳聖書は、「咎によりて死にたる我等をすら、キリスト・イエスに由りてキリストと共に活し」と訳しています。「咎によりて死にたる我等をすら」となっています。「こんなに罪深い私たちをすら。」パウロの感動が伝わります。私たちは自分の罪はそれほどひどくはないと考えているかもしれませんが、神の子イエス様が身代わりに十字架で死んで下さることなしには、自分の罪は決して赦されなかったとの現実を、深く考えてみる必要があるのです。

 5節に、「あなた方の救われたのは恵みによるのです」とも書かれています。自力によって救われたのでは、全くないということです。100%神の恵み、イエス様の十字架の死と復活の恵みによってのみ救われ、永遠の命を受けました。自力は0%です。どんな立派な人でも、100%神様の恵みによってだけ救われるのであって、自力の部分は0%なのです。9節にある通り、それは「誰も誇ることがないため」なのです。6節「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。」イエス様は復活された40日目に天に昇られ、天の王座に着かれ、今もそこで生きておられ、今日もそこから聖霊を注いで下さいます。私たちも地上の人生を終えた後に、同じ天の王座に着かせていただくと約束されているのです。これは大変畏れ多く、信じがたいほど光栄なことです。

 7節「こうして、神は、キリスト・イエスにおいて私たちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです。」口語訳聖書では「それは、キリスト・イエスにあって私たちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。」「神の恵みの絶大な富」という言葉が心に刺さります。イエス様が身代わりに死んで下さった事実は、「神の恵みの絶大な富。」やはりパウロの深い感動が伝わって来ます。

 8~9節「事実、あなた方は恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」私たちは「恵みにより、信仰によって救われた(永遠の命を受けた)。神からの贈り物であり、自分の努力で獲得したものではない。」プロテスタント教会が強調する「信仰義認の真理」ですね。「恵みのみ、信仰のみ」です。私たちのどんなよい行いも、自己中心の罪に汚れているので、それによって永遠の命を獲得することはできない。ただ神から恵みとして提供された「イエス・キリストの十字架の身代わりの死」を素直に受け入れ、信じる信仰によってのみ、救われるのです。「それは誰も誇ることがないためだ」と書かれています。自分の努力で永遠の命を勝ち取ったのなら、自分を誇りたくなります。でもそれはできません。努力で永遠の命を勝ち取ることができない。私たちは自分を誇らず、私たちのために十字架につけられたイエス・キリストのみを、誇るのです。

 10節「なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです。」「私たちは神に造られたもの」とあります。口語訳「私たちは神の作品」、聖書協会共同訳でも「私たちは神の作品」。私たちは、神様が真心を込め、イエス様の十字架と復活によって新しく造って下さった貴重な一人一人です。しかも一人一人は違います。世界中見渡せば、肌の色も様々、髪の毛の色・目の色も様々、言葉も様々。でも神様が真心こめて造って下さった貴重な一人一人です。障がいがあっても、年を重ねて健康が下がっても、神の貴重な作品。

 神様はさらに清き霊である聖霊を私たちに注いで、私たちを修復し、イエス様に似た者となるように今日も、私たちを造り変えておられます。洗礼を受けた人たちは、聖霊によって徐々にイエス様に似た者へと造りかえられてゆく途上に、今あります。聖霊に満たされて、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する思いになるので、神の愛への応答として、善い業を行って歩むようになっています。善い行いを行うことによって永遠の命を獲得することはできませんが、イエス様の十字架の愛への感謝の応答としては、聖霊に助けられて、喜んで善い業、愛の業を行って生きるのです。神の作品が善い業を行わないことはありません。アーメン。