日本キリスト教団 東久留米教会

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2024-01-28 2:32:16()
説教「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」 2024年1月28日(日)礼拝
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄85、主の祈り,交読詩編119:25~48、使徒信条、讃美歌21・17、聖書 エフェソ書3:14~21(新約p.355)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌430、献金、頌栄92、祝祷。 


(エフェソ書3:14~21) こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

(説教) 本日は、降誕節第5主日礼拝です。説教題は「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙3:14~21です。小見出しは、「キリストの愛を知る」です。

 毎月できるだけ1回。エフェソの信徒への手紙を読む礼拝を献げたいと願っています。エフェソの信徒への手紙を読むと、神様の壮大な救いの計画が記されていると感じます。今年度の標語聖句1章4節がそうです。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」神様は私たちを天地創造の前から愛しておられた。実に気が遠くなる壮大なことです。この手紙を読んでいると、内容が壮大であり、特に前半はあまり具体性がなく、霊的、あるいはやや抽象的な印象をもつのではないかと思います。しかし気を取り直して何回も読んでみると、多くの深い霊的な真理を語っていることが、じわじわと分かって来ると感じます。

 この手紙をイエス様の弟子・使徒パウロが書いていると考えて読んでいますが、本日最初の14節は、こうです。「こういうわけで、私は御父の前にひざまずいて祈ります。」ただ祈るのでなく、「ひざまずいて」祈ると言っています。エフェソの教会の人々のために、そして私たちのためにです。ルカ福音書22章を見ると、イエス様は十字架の前夜にオリーブ山(マタイ福音書、マルコ福音書ではゲツセマネ)で祈られたとき、「ひざまずいてこう祈られた」とあります。ひざまずいて「父よ、御心なら、この杯を私から取り除けて下さい。しかし、私の願いではなく、御心のままに行って下さい」と祈られました。ひざまずいて祈ることは、やはり特別に熱心に祈る姿勢だと思います。私たちはひざますいて祈るでしょうか。もちろん家で日々、ひざまずいて祈っておられる方々がおられると思います。この礼拝堂の椅子は、ひざまずいて祈ることができるようにはできていませんね。私は1ヶ月前の12月25日(月)に、清瀬の聖公会の教会のクリスマス礼拝に出席させていただきましたが、会衆椅子の前の下にひざまずく台がありました。ひざまずきたい人は、そこにひざますいて祈ることができます。具体的に祈る姿勢も、実は大切だと感じます。心からへりくだって神様の前の祈ろうとすれば、自然とひざまずいたり、額を地面にこすりつけて祈りたくなるときがあると思うのです。現にパウロも、14節で「ひざまずいて祈ります」と書いていますから、本当にひざまずいて祈ったと思います。この先にパウロの3つの祈りが記されています。

 15節「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」この場合の家族は、非常に広い意味で使われています。人類皆家族、全ての生き物も皆家族、宇宙に存在する全てが家族。つまり地球と宇宙に存在する全てが家族で、皆、父なる神様に造られて存在しているという告白です。16~17節がパウロの第一の祈りです。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなた方の内なる人を強めて、信仰によってあなた方の心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように。」「内なる人」とは、必ずしも私たちの心の中・内面という意味ではないでしょう。私たちの中の、聖霊によりイエス様によって清められている部分の意味と思います。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなた方の内なる人を強めて、信仰によってあなた方の心の内にキリストを住まわせ。あなた方の心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に根ざし、愛にしっかり立つ者として下さるように。」神様が私たちの「内なる人を強めて下さるように。」神が、私たちの聖霊によりイエス様によって清められている部分を、さらに強めて下さるように。そうなれば私たちは、ますます清められ、聖化されます。

 続く17節の前半「信仰によってあなた方の内にキリストを住まわせ。」現に、イエス・キリストはクリスチャン一人一人の中に、生きて住んで、働いておられます。これを「内住のキリスト」と呼びます。パウロの中にもイエス・キリストが生きておられました。クリスチャン皆の中にイエス・キリストが生きておられます。洗礼を受けたときに、そうなったのだと思います。パウロがガラテヤの信徒への手紙2章19~20節でこう書いています。「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」私たちが洗礼を受けたとき、古い自分はイエス様と共に十字架につけられて死にました。そしてイエス・キリストご自身の霊である聖霊が私たちに注がれ、イエス・キリストが、あるいは聖霊が私たちの中で生きるようになられたのです。私たち一人一人の主人公は、私ではなく、イエス・キリストが私たち一人一人の主人公です。私たちは、イエス・キリストに自分を明け渡したのです。

 同じパウロが、フィリピの信徒への手紙1章21節では、こう書いています。「私にとって、生きるとはキリスト。」文語訳聖書ではこうです。「我生くるはキリスト。」実に歯切れがよいですね。「我生くるはキリスト。」キリストこそ、自分の人生の主人公だと告白しているのです。私たちもその方向に進んでいます。私たちの内なる人が聖霊によって強められ、私たちの中にキリストが住んで下されば、私たちはますますイエス・キリストに似た者になります。姿形がではなく、私たちの心、感性、考え方、生き方がイエス様に似て来るはずです。そうなれば、パウロの祈りが実現するはずです。「父なる神様が、『あなた方を愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下去るように。』」聖霊とイエス・キリスト御自身が私たちの中に住んで、私たちの愛を強めて下されば、これは可能です。ですから私たちも今、祈り求めましょう。「聖霊なる神様、私たちの内なる人を強めて下さい。復活のイエス様、私たちの内に住んで、私たちが愛に根ざし、愛にしっかりと立つことができ、日々そのように生き、地上の最後までそのように生き切ることができますように、導いて下さい。

 18節と19節には、パウロの2つめの祈りが記されています。「また、あなた方がすべての聖なる者たち(クリスチャンたち)と共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」私たちが「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解するように、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになるように、そして私たちが神に満ちあふれる豊かさのすべてにあずかるように」とパウロが、ひざまずいて熱心に祈って下さったのです。目もくらむような壮大な祈りと感じます。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」それは言い換えれば、上の段の8節の「キリストの計り知れない富」と同じと思うのです。

 「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」を味わうには、4つの福音書をじっくり読むことが私たちにできることだと思います。4つの福音書には、イエス様の愛が余すところなく記されているからです。コリントの信徒への手紙(一)13章は有名な「愛の賛歌」です。そこに記されている愛は神の完全な愛、神の子イエス様の完全な愛です。特に4~7節に、真の愛がどのようなものか、記されています。この4~7節こそ、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」を語っていると言えます。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

 エフェソ書に戻り、19節には「人の知識をはるかに超えるこの愛」とありますが、私はイエス様の十字架上の祈りも、人の知識をはるかに超えるこの愛、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを指し示すと思います。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているか知らないのです。」これは敵を赦す祈り、敵を愛する祈りですイエス様の十字架上のこの祈りに感銘を受けて、クリスチャンになった方は、多くいらっしゃいます。そして私たちが洗礼を受ける時、イエス様の愛の広さ、長さ、高さ、深さをの少なくとも一端を、実感すると思うのです。「イエス様が私の身代わりに十字架で死んで下さったお陰で、私の全部の罪が赦されのだ」ことが分かるからです。以前引用したローマの信徒への手紙5章16節も、イエス様の十字架の愛の広さ、長さ、高さ、深さを語って余りあります。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働く時には(イエス様の十字架の恵みが働く時には)、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」「いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される!」十字架の愛の偉大な赦しの力に、ただ感謝するほかありません。
 
 そのイエス様の十字架の愛の深さを実感する機会として、神様は私たちに聖餐式の時を用意しておられます。「これはあなた方のために裂かれた主イエス・キリストの体です。あなたのために主イエス・キリストが十字架で体を裂かれたことを覚え、感謝をもってこれを受け、心の中に主イエス・キリストを味わうべきであります。」心の中で味わうだけでなく、私たちがそれを食べて口と胃で極めて具体的に味わうのです。キリストの愛は観念的・抽象的ではないので、私たちも心だけでなく肉体をもって味わうのです。 ぶどう液の式文。

 聖餐式の恵みを受けるに際して、私たちはコリントの信徒への手紙(二)5章14、19節を思い起こすことも有益です。「なぜなら、キリストの愛が私たちを駆り立てているからです。~つまり神は、キリストによって世をを御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。」実にありがたい約束の御言葉です。「ああ、もう私の罪の責任を、神様はお問いにならないのだ。ただイエス様の十字架のお陰で。最後の審判はあるけれども、そこでも私たちの罪の責任は問われない。無罪の宣告を受けるのだ」と、最も深い安息に満たされるのです。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ。」それは十字架の偉大な愛のことです。ローマの信徒への手紙2章4節に、こんな御言葉を見つけました。「(神様の)豊かな慈愛と寛容と忍耐。」「(神様の)豊かな慈愛と寛容と忍耐。」私はこれがキリストの十字架の愛の言い換えだと思いました。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さのことです。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙6章17節で言っています。「私はイエスの焼き印を身に受けているのです。」パウロはイエス様の十字架と復活の焼き印を心と体に刻印された者です。このイエス様の焼き印は、パウロがもはや消えないのです。私たちも同じです。私たちもイエス様の焼き印を「ジュ―」と押された者です。洗礼を受けた時にイエス様の十字架と復活の焼き印を「ジュ―」と押されたのです。それはイエス様の十字架と復活の愛の焼き印を押されたのです。この焼き印はもはや消えないのです。この焼き印は、私たちが悪魔の支配から解放されて、イエス様の愛の支配下に移されたこと、神に属する者となっていることを証明する愛の焼き印です。つまり私たちは、今既にイエス様の十字架の愛の下に置かれており、戦争が起こっても、地震・津波が起こっても、私たちがイエス様の十字架と復活の愛の下にいる事実は微動だにしません。
 
 エフェソの信徒への手紙3章19~21節はこうです。「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることがおできになる方に、教会(原語・エクレシア)により、また、イエス・キリストによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

 ここには「はるかに超える愛」、「満ちあふれる豊かさ」、「満たされるように」、「はるかに超えてかなえる」という言葉が次々に出てきます。神の満ちあふれる豊かさが強調されています。神の偉大さ、壮大さが強調されていて目がくらみます。壮大過ぎてピンと来ないとも思いました。ですが神の満ちあふれる豊かさとは何かと思い巡らしてみると、最終的にはイエス様の十字架の愛の偉大さに行き着くのではないかと思い至ります。最後の、「栄光が世々限りなくありますように」の「世々限りなく」は、私なりに訳すと「全世代にわたって、永遠から永遠に」です。「教会により、また、キリスト・イエスによって、(神に)栄光が全世代にわたって、永遠から永遠にあるように、アーメン。」神様への目もくらむような讃美です。教会は、新約聖書のギリシア語でエクレシアですが、これは全世界の全時代の教会を指すと思います。もちろん東久留米教会もその1つです。全教会が、イエス様の十字架という最も偉大な愛を私たちにプレゼントして下さった神を賛美していると思うのです。どんな罪人(つみびと)でも、罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じれば、救われて天国に入ることができるのです。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ。」パウロは、ローマの信徒への手紙11章32節で、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と、神の知恵の深さに感嘆と讃嘆の叫びを挙げていますね。私たちも、「イエス様の十字架の愛は何と広く、長く、高く、深いことか」と讃嘆と讃美の声を挙げたいと思います。アーメン。

2024-01-20 18:25:36(土)
「既に悪に勝利したキリスト」 2024年1月21日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第66回)
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄85、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・278、聖書 ヨハネ福音書16:25~33(新約p.201)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌471、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ヨハネ福音書16:25~33) 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第66回)です。説教題は「既に悪に勝利したキリスト」です。新約聖書は、ヨハネ福音書16:25~33です。

 場面は、イエス様が十字架に架かられる前夜、緊迫した場面です。15~16章は、弟子たちとの問答をも多少含む、イエス様の長い説教です。イエス様が間もなく去られると聞いて、弟子たちの心は悲しみに満たされました。しかしイエス様は、ご自分が去って行くことは、むしろ弟子たちのためになるとおっしゃいます。イエス様が十字架の死と復活を経て天に昇られれば、天から神の愛の霊・清き霊である聖霊を注いで下さるからです。イエス様は約束されます。「この霊はあなた方と共におり、あなた方の内にいるからである」(14章17節)。「真理の霊(聖霊)が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。」そしてイエス様は14章で、」「私はあなた方をみなしごにはしておかない。あなた方の所に戻って来る」とも言われました。別れは一時的なのです。この戻って来るということは、イエス様が十字架の死の三日目に復活して弟子たちの前に姿を現すことです。そして復活から40日目に天に昇られたイエス様が将来、この地上にもう一度おいでになって(再臨)、私たちと直接会って下さるときのことです。もちろん私たちが、イエス様の地上への再臨の前に地上の人生を終えれば、天国でイエス様に直にお目にかかるのです。私たちはみなしご、一人ぼっちにはなりません。聖霊なる神様が、いつも共にいて下さるからです。

 25節「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらずず。はっきり父について知らせる時が来る。」「たとえを用いて」とは、たとえば15章の御言葉等を指すと思います。「私(イエス様)はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」これは明らかにたとえで、イエス様をぶどうの木にたとえています。しかし、もはやたとえによらず、はっきり父なる神様について知らせる時が来る、今がその時なのだと思います。26節「その日には、あなた方は私の名によって願うことになる。私があなた方のために父に願ってあげる、とは言わない。」イエス様が、弟子たちと私たちのために父なる神様に祈って下さるのではなく、弟子たち自身、私たち自身が、自分でイエス様のお名前によって父なる神様に祈ることができるようになる。私たちは、現にそうしています。それほど、私たちと父なる神様の間の距離が短くなり、親しくなるという恵みです。

 27節「父御自身が、あなた方を愛しておられるのである。あなた方が、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。」ここに出て来る愛は「アガペー」ではありません。よくキリスト教会では、「神様の愛はアガペーの愛、他人のために自分の命を犠牲にできる無償の愛」だと言います。その通りです。ですがここに出て来る「愛する」は「フィレオ―」というギリシア語です。これは友愛と訳せる言葉です。友の愛ですね。イエス様は15章で、「私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である。もはや、私はあなた方を僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」イエス様は、父なる神様から聞かれたことを、すべて弟子たち(私たち)に知らせて下さった。イエス様の名によって願うものは何でも与えられる。それほど私たちとイエス様、私たちと父なる神様の間の距離は短くて近しくて、深い信頼関係で結ばれているというのです。

 弟子たちにもやっと分かって来たようです。29節「弟子たちは言った。『今は、はっきりとお話になって、少しもたとえを用いられません。あなたが何もかもご存じで、誰もお尋ねする必要のないことが、今分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと私たちは信じます。』」これを直訳すると、「あなたが神から出て来た」です。「神のもとから来られた」というよりも「神から出て来た」が直訳です。そう、イエス・キリストは父なる神様から直接出た方なのです。
 
 16章に戻り、28節「私は父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って父のもとに行く。」「世に来た」はクリスマスの出来事です。世は、神様に背く罪と悪の世です。父なる神様は、ご自分に背くこの世に、最も愛する独り子イエス様を贈って下さったのです。ヨハネ福音書3章16節に、こう書かれているとおりです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 31節「イエスはお答えになった。今ようやく信じるようになったのか。だが、あなた方が散らされて自分の家に帰ってしまい、私をひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、私はひとりではない。父が、共にいて下さるからだ。」十字架の時に、共にいた男の弟子はヨハネだけです。そして母マリアをはじめ。4名の婦人たちがいました。しかし大祭司やピラトに尋問されているときは、イエス様の傍に弟子たちは一人もいませんでした。しかし父なる神様が共におられたので、イエス様は孤独ではありませんでした。

 33~35節は、本当に力強いすばらしい御言葉です。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」特に最後の御言葉、「私は既に世に勝っている。」聖書の中にすばらしい御言葉が多くありますが、今の私にとっては、これこそ聖書の最高の御言葉と思えます。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。」苦労、苦難、試練はあります。戦争もあり、地震、津波もあるのが現実です。「しかし、勇気を出しなさい。私(イエス・キリスト)は既に世に勝っている。」これは世界で最も力強い言葉と思います。イエス様が既に世に勝利しておられるのですから、イエス様にさえつながっていれば、私たちは究極的に恐れるものは何もないと分かります。世とは、神に背く世であり、悪魔が支配する世です。悪魔に支配され、罪と悪と誘惑と死が勝利している世です。悪魔は、最初にエバを誘惑し、エバとエバの誘いに負けたアダムに神に背く罪を犯させ、エバとアダムは死ぬ者となり、その時以来、悪魔が全ての人間たちを支配していました。その悪魔の支配を打ち破るために、イエス・キリストが誕生されました。神の子イエス様は、人間の赤ちゃんとして誕生されました。そして地上の約33年間の生涯において、ただの一度も悪魔の誘惑に負けて、罪を犯すことがありまませんでした。辛い十字架の上でも、ただの一度も不平不満を述べず、だだの一度も罪を犯さなかったのです。十字架で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、あれは父なる神への問いかけであり、不平不満の罪ではありません。ただの一度も罪を犯さないことで、イエス様は悪魔に完全に勝利されました。十字架の死の三日目に死から復活され、死にも勝利されたのです。

 昔、アウレンという神学者が、『勝利者キリスト』という本を書きました。私も持っていますが、難しいので全部は読めていません。世界の教会を2つに分けると、西方教会と東方教会に分けることができるそうです。西方教会はカトリック教会で、そこからプロテスタント教会が生まれます。でもカトリックもプロテスタントも、大きな目で見れば西方教会です。これに対して東方教会があり、それはギリシア正教です。東京の神田にあるニコライ堂がギリシア正教の教会です。西方教会の伝統は、クリスマスを大きく祝います。東方教会はイースターを最も大きく祝い、クリスマスよりもイースターを大きく祝うそうです。それはキリストの復活を最も重視することです。イエス様の十字架も復活も共に大切なのですが、西方教会はどちらかと言うと十字架を強調し、東方教会は十字架を重視しつつも、その後の復活を強調するそうです。それはキリストの復活による悪魔と死への勝利を強調することです。「勝利者キリスト」を強調するのですね。

 19世紀のスイスに、ブルームハルトという牧師がいました(井上良雄著『神の国の証人ブルームハルト父子』新教出版社、1994年)。彼が住むメットリンゲンという村にゴットリービン・ディトゥスという23歳の女性がいました。彼女の上に1840年2月ころから、異常が起こるようになります。突然発作に襲われて、床に倒れてしまう。家の中に激しい物音がするようになります。それは悪魔の働きだったのです。ゴットリービンは痙攣を起こし、泡を吹きます。ブルームハルト牧師は悪魔への憤りを覚え、ゴットリービンの手をつかみ、大声で言います。「手を合わせ、主イエスよ、助けて下さいと祈りなさい。私たちは随分長い間、悪魔の仕業を見て来た。今度は、イエスがなさることを見よう。」彼女が目を覚まし。言われたように祈ると、痙攣は全く止みました。その場にいた人々にとって、大きな驚きでした。しかし彼女の状態はなかなか完全によくならず、錯乱したりします。悪魔の力は彼女の兄や姉のカタリーナまで狂乱させたりします。ブルームハルト牧師は、祈りによって戦います。実際はブルームハルト牧師を通して、見えない復活のイエス様が戦って下さいました。遂に1843年12月27日から28日にかけての真夜中に、戦いが終わります。姉のカタリーナを通して、「サタン(悪魔)となった天使と称する者が。人間の喉から出るとは思えない声で、『イエスは勝利者だ。イエスは勝利者だ』と吼えるように叫んだ。」悪霊の威力と力は次第に静かになり、弱くなり、消滅した。2年以上の戦いが終わり、ゴットリービンも姉のカタリーナも癒されます。それ以来、精神障碍に苦しむ人々が多く、ブルームハルト牧師のもとに来るようになりました。悪魔が「イエスは勝利者だ、イエスは勝利者だ」と叫んだことは、真実です。イエス様は、「私は既に世に勝っている」と宣言されたからです。

 大江健三郎という著名な作家が、残念ながら昨年亡くなりました。洗礼を受けなかったと思われますが、考え方がクリスチャンに近い方だったと感じます。その大江さんの『新年への挨拶』という本に書かれているそうですが、大江さんがチャンピオンという言葉を英英辞典で調べたところ、私たちがすぐ思う「勝利者」の意味は三番目で、第一の意味は「誰かの代わりに闘う人、大切なことを他人の変わりに成し遂げる人」だったそうです。私たちは、これはイエス・キリストにこそ、ぴったり当てはまる言葉だと気づきますね。イエス・キリストこそ、真のチャンピオンだと思うのです。イエス様こそ、私たち皆の代表として、私たち皆の代理人として、私たちの全部の罪の責任を背負って、代わりに十字架で死に、悪魔のあらゆる誘惑と死に勝利して復活して下さったからです。真の勝利者、チャンピオンです。「私は既に世に勝っている。」洗礼を受けてこのイエス様につながるならば、私たちは自分の頑張りでは、悪魔の誘惑にも罪にも死にも打ち勝てないのですが、ただ勝利者イエス様のお陰で、悪魔と罪と悪と死の支配に勝利させていただくことができます。イエス様につながることで、真の安心をいただくことができます。

 「主我を愛す」という有名な讃美歌があります。主はイエス様です。「主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、我を愛す。」主イエス様が強いので、私たちが弱くても大丈夫。恐れる必要はありません、私たちが弱くても、主イエス様が強いので、安心してイエス様につながっていれば、確実に天国に入れます。チャンピオン・イエス様が私たちの味方ですから。

 「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」これは最高の福音の御言葉とも言えます。イエス様が11章で言われた御言葉と同じ力強さです。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」と同じ力強さです。

 この御言葉に励まされて、勇気をもってイエス様に従ったクリスチャンは、多くおられると思います。有名なマルティン・ルーサー・キング牧師もそうだと思います。黒人への差別をなくすために懸命に働いた方ですが、反対する人々からの迫害がありました。アメリカはオバマさんという黒人大統領も誕生したのですが、まだ差別は残っており、人種差別が完全になくなるために、なお前進が必要です。キング牧師の「私には夢がある」という演説がよく知られ、日本の中学生の英語の教科書にも載っていると聞いた記憶があります。「私には夢がある。私はいつの日かジョージア州の赤土の上で、かつての奴隷の子孫と奴隷の主人の子孫とが、兄弟愛のテーブルに一緒に座るようになるという夢をもっている。そして私は、私の四人の小さな子どもたちがいつの日か、皮膚の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住むようになる夢をもっている。また私は、いつの日か次の御言葉が実現する夢を持っている」そしてキング牧師は、旧約聖書のイザヤ書40章4、5節を語ります。「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者(=人間たち)は共に見る。」主の栄光が現れるとは、復活したキリストが現れ、「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と宣言することと言ってもよいと思います。

 今から歌う讃美歌471番は、黒人差別をなくすために非暴力で闘ったキング牧師と仲間の方々が歌った讃美歌として知られます。非暴力で闘ったということは、祈りながら闘った、暴力で暴力と闘ったのではなく、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝つ」(ローマの信徒への手紙12章21節)姿勢で闘ったのです。歌詞に「勝利を望み」とありますが、相手を憎んで倒すのではなく、愛と善によって悪を必ず乗り越えようと歌っているのですから。元の英語は「ウイー シャル オーバーカム」(私たちは乗り越える、克服する)ですから。クリスマスイヴにも申しましたが、私は10月下旬に一度、「首相官邸前でゴスペルを歌う会」に初めて行きました。これは沖縄の「普天間基地前でゴスペルを歌う会」に連動して行われて来ました。沖縄から米軍基地がなくなることを祈り願うクリスチャンが行っている会です。首相官邸前でもこの471番を英語で歌いました。「もろびとこぞりて」も歌いました。沖縄から米軍基地が全てなくなることは簡単ではない。玉城(たまき)デニー知事が政府に抵抗しています。私は、少なくとも沖縄の基地負担を軽減できるように、東アジアで決して戦争が起こらないことを祈り参加しました。「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」このイエス様の御言葉に励まされ、最後の勝利は既に決まっている事実に安心を与えられ、私たち一人一人に与えられた苦労や苦難があっても勇気をもって歩みたいのです。アーメン。

2024-01-14 2:41:08()
説教「悲しみは喜びに変わる」 2024年1月14日(日) 降誕節第3主日 公同礼拝
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄29、主の祈り,交読詩編119:1~24、使徒信条、讃美歌21・260、聖書 詩編30:5~6(旧約p.860)、ヨハネ福音書16:16~24(新約p.200)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌271、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(詩編30:5~6) 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。

(ヨハネ福音書16:16~24) 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

(説教) 本日の礼拝は、降誕節第3主日の公同礼拝です。説教題は「悲しみは喜びに変わる」です。新約聖書は、ヨハネ福音書16:16~24です。小見出しは、「悲しみが喜びに変わる」です。

 時はイエス様の十字架の前夜、ヨハネ福音書15~16章はイエス様の弟子たちへの説教、一旦別れることを告げる説教、一時的な別れではあるが決別説教と言えます。16節は、イエス様の言葉です。「しばらくすると、あなた方はもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる。」17~18節は、弟子たちの不安の言葉です。「そこで、弟子たちのある者は互いに言った。『しばらくすると、あなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」「また、言った。『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分らない。」

 19節からがイエス様のお答えの説教です。「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。『しばらくすると、あなた方は私を見なくなるが、またしばら
またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。」ここまでに「しばらくすると」という言葉が7回も出て来たのですが、この「しばらくすると」は原語のギリシア語で「ミクロン」という言葉です。ミクロという言葉の語源でしょう。ミクロは「非常に小さい、短い」の意味です。日本語訳は口語訳も、新改訳も、新共同訳も、最新の聖書協会共も「しばらくすると」です。2つの英語訳聖書では、「少しの時間の後」です。「ミクロン」ですから、私が受ける印象では、「しばらくすると」よりも時間がやや短い感じを受けます。「しばらくすると、あなた方はもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる。」つまりイエス様に会えない時間は短いとおっしゃっているように感じます。実際、イエス様は金曜日に十字架で死なれ、夕刻に墓に葬られ、三日目の日曜日の早朝に復活され、まず早朝に、婦人の弟子たちにそのお姿を現して下さいます。不在期間は約一日半です。しかしその一日半は、弟子たちにとって、イエス様のお姿が見えなくなることは、非常に不安なことでした。一日半とは言え、弟子たちにとっては、非常に不安な時でした。待つときは、時間はとても長く感じられますから。

 しかし、イエス様は励まして下さいます。20節「はっきり言っておく(アーメン、アーメン、私はあなた方に言う。)あなた方は泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」復活のイエス様と出会うからです。イエス様は、十字架で死なれた上で復活され、悪魔と死に勝利なさるのです。もう今既に勝利されています。来週の個所になりますが、イエス様が16章33節で、こうおっしゃっている通りです。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」これは力強い御言葉です。イエス様は、今既に悪魔に勝ち、罪の誘惑に全て打ち勝ち、死に打ち勝たれているのです。「私は既に世に勝っている。」このイエス・キリストに洗礼によってつながるならば、私たちはイエス様の御力のお陰で、私たちも悪魔、罪、死の力に勝利することができます。キリストにつながっているならば、私たちは今既に悪魔、罪、死の力に勝利しています。弟子たちがイエス様が死者の国に下りておられた一日半の期間を経て、弟子たちの悲しみは、真の喜びに変わります。それはもはや失われない天国の喜びです。

 イエス様は、たとえを語られます。21節「女は子どもを産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」私は男性ですので、このことは決して経験することができません。イエス様も男性ですからご自分では出産経験がないのですが、母マリアがこのような産みの苦しみをなさったことを、深く感謝しておられたに違いありません。イエス様の十字架の死は、イエス様が復活の勝利に至るための「産みの苦しみ」だったと言って差支えないでしょう。

 22節「ところで、今はあなた方も、悲しんでいる。しかし、私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。」復活のイエス様と再会する喜びです。それは永遠の喜びなのです。この地上の喜びではありません。聖霊が与えて下さる聖なる喜びです。「その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。」イエス様はこの16章の最後で、「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と言われました。ですからイエス様につながっている限り、イエス様から来る喜びを奪うことは、悪魔にも誰にもできないのです。

 23節「その日には、あなた方はもはや、私に何も尋ねない。はっきり言っておく。あなた方が私の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなた方は私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる。」イエス様はこの前の14章でも、「私が父のもとへ行くからである。私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって何かを願うならば、私がかなえてあげよう」とも語っておられます。私たちはこの約束を信じているので、祈るときに、「主イエス・キリストのお名前によって、お祈り致します」と祈ります。イエス・キリストのとりなしによって、私たちの祈りを父なる神様が聞き届けて下さると信じて、イエス様のお名前を通してお祈り致します。

 イエス様は本日の最後で、「今までは、あなた方は私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる。」この喜びは、この地上の喜びではなく、やはり聖霊による聖なる喜びだと思います。礼拝は、この世のものでない聖霊による聖なる喜びと慰めに満たされる時と場です。私たちが聖書の御言葉と聖霊によって満たされ、月一回はイエス様の御体と御血潮であるパンとぶどう液を食べ飲みし、イエス・キリストの聖なる愛で心身が満たされる時と場です。ペトロの手紙(一)1章8~9節に、このように書かれています。「あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今は見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」礼拝は、目に見えない神様にお目にかかる時、今は目に見えないイエス・キリストにお目にかかる時、そして聖霊の慰めと喜びに満たされる時です。そうです、今ここに神様が共に生きておられます。

 イエス様は、「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言われました。旧約聖書の詩編にも似た言葉があります。たとえば本日の詩編30編6節です。「(神様は)泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせて下さる。」あるいは詩編126編5~6節です。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰って来る。」能登の方々にこのようになっていただきたいと祈りますが、今すぐとはいかず、時間がかかるでしょう。時間がかかっても神様がこのようにして下さるように、切に祈ります。

 1年ほど前の新聞に、詩編30編6節が好きだと男性が紹介されていました。ドイツ・ライプチヒのバッハ資料財団で働いておられる高野さんという方です。クリスチャンかどうかは、分かりません。バッハの音楽を愛する高野さんにとってすばらしい仕事ですが、25年前は、このような仕事に就けるとは考えることもできませんでした。東京の大学時代はバッハ漬けの生活を送り、30才で初めてバッハが後半生を過ごしたライプチヒを訪れ、バッハが音楽監督を務めた聖トーマス教会の牧師に、バッハを研究したいと言うと、教会の一室に宿泊させてくれました。以後、日本とライプチヒを往復する生活に入りますが、定職についていなかったので、34才で造園会社に就職するも、なじめず、会社を辞めて引きこもり生活になり、収入はなくなり、ガスと水道も止まりました。友人に精神科の受診を勧められ、うつ病と診断されます。主治医が、生活保護を受けることを勧めてくれました。真っ暗闇に一筋の光が差したと感じました。

 福祉事務所に行くと、「生活保護は当然の権利ですからね」と言ってくれました。周りは冷ややかでしたが、バッハの音楽を聴くことは続け、バッハに関わる時だけ前向きになれました。ある日、不思議なことに、ライプチヒ行きの航空券が送られて来ました。以前世話になった教会の牧師からでした。聖トーマス教会の牧師かどうかは、私にははっきりしません。すぐにライプチヒに飛び、バッハ研究の拠点・バッハ資料財団に行きました。「何でもします」と頼み込みと、バッハ音楽祭の宣伝ちらしを日本の演奏会で配る仕事を与えられました。これをきっかけに道が開け、40才で財団の正職員に採用され、生活保護をやめました。その後20年以上、バッハ管理財団で働いているそうです。

 4年間、生活保護のお陰で食べることができ、生きることができた。突然仕事を失うことは、誰にでもあり得るでしょう。生活保護でその間を乗り切れれば、次のステップに進むこともできる。「生活保護で救われた私は何度も伝えないといけない。生活保護は、恥ずかしいことでも何でもない。私の周りのドイツ人にも、生活保護にあたる制度を利用している人はいるが、みんな胸を張って生きていますよ。次の人生に進むための研修期間という感じで、それを周りも自然と受け入れている。」この高野さんが好きな聖書の御言葉が、詩編30編6節だそうです。「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせて下さる。」もちろん神様が、です。生活保護は社会の救いのしくみ、セーフティーネットですが、神様が用意して下さっている恵みだと思います。それをも用いて、神様が私たちを悲しみから慰め、希望へと一歩ずつ導いて下さると信じます。

 私は2か月前に台湾に行かせていただきましたが、その後、台湾基督長老教会の牧師・総幹事であられた高俊明牧師の詩のお話をしたように思います。台湾では長年、国民党政府が民衆を押さえつけて、民主化が行われませんでした。高俊明牧師は、台湾基督長老教会の総幹事でしたが、国民党政府に睨まれて1980年頃に4年間以上投獄される苦難を味わわれました。ようやく民主化が成ったのは1990年頃のことです。高俊明牧師は詩人もあり、「サボテンと毛虫」という詩が、もしかすると代表作かもしれません(高俊明詩集『サボテンと毛虫』1995年、教文館)。「私は求めた。美しい花束を(民主化を)。しかし、神さまは、とげだらけのサボテンをくださった。私は求めた。美しい胡蝶を。しかし、神さまは、ゾッとするような毛虫をくださった。私は嘆き、悲しみ、失望した。 しかし、多くの日が過ぎ去ったあと、私は目を見張った。サボテンが多くの花を開いて、美しく咲き乱れ、毛虫が愛らしいい胡蝶となって、春風に舞い舞うのを。すばらしい神さまのご計画。」
時間がかかったけれども、弾圧の時代から民主化の時代に進んだのです。「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」神様の愛の力によってです。

 今、辛い悲しみの中におられるのは能登半島の方々です。悲しみがすぐ喜びに変わるとは思えません。時間がかかります。悲しみを喜びに変えて下さるのは、イエス・キリストの父なる神様です。そして私たちの愛も問われています。私たちの小さな応援も、能登の方々の心が悲しい状態から、時間をかけて慰めに向かっていただくために、神に用いられると信じます。世界には戦争で家族を失う人々も多くある現在です。悲しみの世界から、慰めと希望の世界へ、神様が変えて下さることを信じて祈り、私たちも自分にできる協力をしたいものです。アーメン。

2024-01-06 23:25:31(土)
「真理を悟らせる聖霊」 2024年1月7日(日)降誕節第2主日公同礼拝
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄24、主の祈り,交読詩編118、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・249、聖書 イザヤ書61:1~4(旧約p.1345)、ヨハネ福音書16:1~15(新約p.231)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌268、献金、頌栄27、祝祷。 

(イザヤ書61:1~4) 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰めシオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。

(ヨハネ福音書16:4b~15) 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

(説教) 皆様、本年も何卒よろしくお願い申し上げます。本日の礼拝は、降誕節第2主日の公同礼拝です。説教題は「真理を悟らせる聖霊」です。新約聖書は、ヨハネ福音書16:1~15です。

 本日の場面は、イエス様の十字架の前夜です。13章でイエス様が弟子たちの足を洗われ、ユダが出て行き、イエス様がペトロがイエス様を三度知らないと言うと予告され、「さあ、立て、ここから出かけよう」と十字架に向かう決心を述べられます。しかし弟子たちは、イエス様が十字架に向かわれることが、まだよく分かっていません。そして15章からイエス様の長い説教に入り、16章の最後まで続きます。17章はイエス様の長い祈りです。本日の箇所は、イエス様の長い説教の中盤です。

 2節「人々はあなた方を会堂から追放するだろう。しかも、あなた方を殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからである。」これはイエス様の十字架と復活の後、40年ほど後に本当にこのようになったようです。イエス様はそれを予告しておられます。紀元後70年ごろ、ユダヤ人たちはユダヤを支配していたローマ帝国に対して立ち上がり、戦争を仕掛けました。しかし敗戦に終わり、神殿が破壊されエルサレムも焼かれてしまいます。ユダヤ教の教団にとっても滅亡の危機になりましたが、ユダヤ人たちが紀元85年頃にイスラエル南西部のヤムニアという場所で会議を開き、ユダヤ教団の再建維持に乗り出します。神殿が焼け落ちたことによって、神殿を重視していたサドカイ派は没落し、ファリサイ派を中心にしてユダヤ教団は再建されたそうです。

このヤムニア会議で、彼らの聖書も初めて範囲が確定されます。その意味では、私たちキリスト教会にとっても関係のある会議です。彼らが決めた聖書を、キリスト教会がそのまま旧約聖書正典として受け入れたからです。ただし、この会議は発足したばかりのキリスト教会を迫害することを決めた会議でもありました。イエス様を救い主と信じるクリスチャンたちに対して、ユダヤ教側からそれを異端として排斥することが、事実上決められたからです。クリスチャンたちはユダヤ人の会堂からの追放が決まりました。それより前の使徒言行録の時代にもキリスト教会への迫害はありましたが、ユダヤ教のヤムニア会議で、キリスト教会を異端として排斥することが正式に決まったようです。イエス様は今日の御言葉で、約半世紀先にそうなると予告しておられると言えます。「人々は、あなた方を会堂から追放するだろう。しかし、あなた方を殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、私が語ったということをあなた方に思い出させるためである。」そのような時が来るけれども、イエス・キリストから逸れないように、ということでしょう。

4節後半から。「初めからこれらのことを言わなかったのは、私があなた方と一緒にいたからである。今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなた方は誰も、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、私がこれらのことを話したので、あなた方の心は悲しみで満たされている。」イエス様が去って行く話をされるので、弟子たちの心は不安になり、悲しみで満たされているというのです。

7節「しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなた方のためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなた方の所に来ないからである。」弁護者は、聖霊なる神様です。弁護者は、原語のギリシア語でパラクレートスです。口語訳聖書と新改訳聖書改訂第3版はこのパラクレートスを助け主と訳しています。慰め主と訳すこともあります。パラクレートスの直接の意味は「傍らに呼ばれた者」です。傍らに呼ばれて何をするのかというと、弁護してくれるのです。ですので弁護者という訳が可能になります。裁判の被告人にとって弁護士ほど頼りになる存在はありません。私たちも、最後の審判では被告になるので、イエス・キリストの霊である
聖霊が傍らで弁護して下されば、これほど心強く、安心なことはありません。

「私が行けば(十字架の死と復活を経て、天に昇れば)、弁護者をあなた方のところに送る。」14章でイエス様は、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。この方は、真理の霊である」と言われました。そうです、聖霊なる神様が、弟子たちと私たちと、永遠に共にいて下さるのです。それは、イエス様が共にいて下さることと同じ、また父なる神様が共にいて下さることと同じです。主に18世紀にイギリスで長年伝道のために働いたジョン・ウェスレーという有名な牧師の最後の言葉が、「最善のことは、神が共にいて下さることだ」だったそうです。「神が共におられる、イエス様が共におられる、聖霊なる神様が共におられる」、これこそが実は最高の幸せだということです。それ以外の幸せは、永遠には続かないからです。

さて、16章8節以下「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、:彼らが私を信じないこと、義についてとは、私が父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなること、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」旧約聖書にも罪の基準はあります。モーセの十戒です。それは大切です。ですが十戒に違反する以外の罪もあります。イエス・キリストが、父なる神様から救い主としてイスラエルに、そしてこの世界に派遣されたのに、このイエス様を素直に受け入れず、拒否する罪です。さらにはイエス様を十字架につけて殺す罪です。

なぜヨハネ福音書に登場するユダヤ人の主にファリサイ派の人々は、イエス様につまずいたのか。なぜイエス様を拒否したのか。それは彼らの目には、イエス様が父なる神様に背いたと見えたからです。実際はイエス様は、父なる神様に背いていないのですが、ユダヤ人たちには背いたと見えたのです。それはたとえばイエス様が安息日(土曜日、礼拝の日)に38年病気であった人を癒し、生まれつき目が見なかった人の目を開いたことです。彼らには、それが安息日違反に見えました。モーセの十戒は出エジプト記20章と申命記5章に出ていますが、確かにこう書かれています。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も、同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。」

 「安息日には、いかなる仕事もしてはならない。」その目的は、家の主人が仕事を休んで神様を礼拝する、その結果、家の使用人も休むことができるため。そして神様がかつて与えて下さった出エジプトの恵み、解放の恵みを主人も使用人も味わう。そのような時だと。そう考えれば、イエス様が礼拝をなさった上で、38年間病気であった男性を病気から解放なさり、生まれつき目が見えない男性の目を開いて盲目の苦しみから解放なさったことは、安息日にふさわしい行いだったことになります。

 そしてユダヤ人たちがイエス様につまづいて、イエス様を救い主と信じない決定的な理由は、今日の場面より後のことになりますが、イエス様が十字架で死なれたことです。ユダヤ人にとって十字架の死は、神様の呪いそのものでした。旧約聖書の申命記21章22節に、こうあるからです。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」十字架という木にかけられて処刑されたイエス様は、彼らにとって神に呪われた汚らわしい男でした。そのイエス様を神の子、救い主と信じるクリスチャンも、彼らから見れば神に呪われた者です。ですからユダヤ人たちは、神に喜ばれると確信してクリスチャンたちを迫害しました。確かにイエス様は、父なる神様の呪いを受けられたのです。この場合、呪いを裁きを言い換えることもできます。その呪い、裁きは、私たちが自分の罪のゆえに受けるべき呪い・裁きでした。しかし、イエス様が私たちを罪から救うために、私たちの身代わりとなって十字架にかかり、父なる神様の呪い・裁きを一身に引き受けて下さいました。ですからイエス様が十字架で呪いを受けたことは事実です。

 昔も今も、人がクリスチャンになりにくい理由があるとすれば、それは自分が神様の前に罪人(つみびと)であることを認める必要があるからです。自分の力で正しく生きることができると思っている人は、自分が神の前に罪人(つみびと)であることを認めたくありません。それは誇り・プライドを大きく傷つけることだからです。このプライド・誇りが問題です。はっきり言えば罪です。しかしこのことを乗り越え、自分が罪人(つみびと)であることを認め、その自分の罪を赦すためにイエス様が十字架で死んで下さったことを謙虚に信じ告白する人が、罪の赦しと永遠の命の受け、救われます。

 さてイエス様は、「その方(聖霊)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」「義についてとは、私が父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなること。」イエス様が私たちの罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活され、天に昇られる。このイエス様を救い主と信じる信仰によって(行いによってでなく)、私たちは「神の義」を与えられます。自力による「自分の義」ではなく、「神の義」をプレゼントされます。そのことを述べています。

 「また裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」この世の支配者とは悪魔です。悪魔はエバとアダムを誘惑することに成功して以来、人間たちを支配して来ました。しかしここに神の子であり同時に人間であるイエス様が現れます。悪魔から見れば強敵です。悪魔は全力でイエス様を誘惑し、罪を犯させようとします。イエス様が1つでも罪を犯せば、悪魔がイエス様を支配します。ところが悪魔がどんなに誘惑しても、十字架の苦難が与えられても、イエス様はただの一度も罪を犯されませんでした。十字架でも不平不満の一言も漏らされなかったのです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、それは問いかけであり、不平不満を言う罪を犯したのではありません。こうして悪魔はイエス様に完敗しました。今はまだ無駄な最後の抵抗をしていますが、世の終わりには滅ぼされることが決まっています。イエス様の時代にイエス様を迫害したユダヤ人たちも悪魔に支配されて、イエス様を十字架で殺す大きな罪を犯しました。そのために、イスラエルは紀元70年頃に、ローマ軍に攻撃されて、一旦国が滅びたのです。これも神による断罪と言わざるを得ません。

 12節以下「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなた方に告げるからである。」イエス様の言葉は、弟子たちに分かりにくかったでしょう。それを聖霊が分からせて下さいます。今でも私たちが聖書を読む時、分かりにくい御言葉もあります。解説書で調べることも必要です。同時に、聖書の正しい意味は、私たちが祈る時に、聖霊が次第に教えて下さいます。「あ、そうか!」とひらめいて、次第に聖書を正しく理解させて下さいます。
14節「その方は、私に栄光を与える。私のものを受けて、あなた方に告げるからである。」聖霊は三位一体の神様です。聖霊は、イエス・キリストに栄光を帰します。

 本日は、イザヤ書61章1節以下をも、与えられています。素晴らしい御言葉です。1節「主は私に油(聖霊)を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。」ルカ福音書4章を見ると、この「私」をイエス様は、ご自分のことと考えておられます。「私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」これがイエス様のお働きです。「主なる神の霊が私をとらえた」とありますが、ある人は、「信仰とは、聖霊にとらえられた状態」と言ったそうです。その意味で、私たちも聖霊にとらえられていることを喜びましょう。神様が全ての人に聖霊を注いで、すべての方を聖霊によってとらえて下さることを、心より祈ります。

 2節以下、「主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼ら(イスラエルの民、神の民)は主が輝きを表すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興す。廃墟の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。」

 一昨日夕刻、私は能登地震に関して、キリスト教の災害救援団体が主催したオンライン会議に参加致しました。各地から100名ほどの参加でした。能登にも色々な教派の教会がありますが、支援の拠点となっている教会の牧師の現地報告等がありました。割れたり隆起した道路の写真も見ました。早速九州からトラックで支援物資を能登半島に運んだキリスト教支援団体の話も聞きました。迅速な行動に目を見張りました。同時に、今は道路が渋滞しているので現地に行くことは控えるべきという意見も正しいと思います。しかし多くのクリスチャンが能登のために祈り、協力していることは、すばらしいと思いました。まさに能登に住む全ての方々に、イザヤ書61章に書かれている神様の恵みが必要です。「嘆いている人々を慰め、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣を」、今この言葉をお示しすることは無神経ですが、時間をかけて次第に聖霊による慰めが浸透するように、神様の愛の癒しが与えられるように、祈ります。日本基督教団は、息の長い支援をする方針を打ち出していると聞きます。時間をかけて、能登の方々の心身が癒されてゆくように、ご一緒に祈りたいのです。アーメン。

2023-12-31 1:31:48()
説教「試練の中での神様の守り」2023年12月31日(日)降誕節第1主日公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~5,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編117、使徒信条、讃美歌21・259、聖書 エレミヤ書31:15~17(旧約p.1235)、マタイ福音書2:13~23(新約p.2)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌247、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(エレミヤ書31:15~17) 主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。 

(マタイによる福音書2:13~23) 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」

 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。


(説教) 本日の礼拝は、降誕節第1主日の公同礼拝です。説教題は「試練の中での神様の守り」です。新約聖書は、マタイ福音書2:13~25です。

 最初の13節以下「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子どもとの母親を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにとどまっていなさい。へロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母親を連れてエジプトへ去り、へロデが死ぬまでそこにいた。」イエス様の父ヨセフは、神様に真に忠実に従う人です。新約聖書に、ヨセフの言葉は一言も記されていませんが、ヨセフの行動は記されています。ヨセフはいつも、神様の指示に真に忠実に行動して、長男イエス様と妻マリアを守る責任を果たしています。ヨセフは言葉巧みな人ではなく、行動によって信仰を表すタイプの人だったようです。プロテスタント教会は「信仰義認」を強調します。それは正しいのですが、さらに一歩進んで、イエス・キリストへの信仰のみによって義と認められた上で、神様の愛への応答として行動する信仰をも、私たちはヨセフから学びたいと思います。ヤコブの手紙2章21~22節には、こう書かれています。「神が私たちの父(先祖)アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」

 当時のエジプトは、いろいろなピンチに陥った人がそこへ逃れて過ごす逃れ場、安全地帯、シェルターのような場所だったようです。ユダヤ人(イスラエルの民)の共同体もできあがっていたと聞いています。神様がエジプトで、イエス様とヨセフ、マリアを保護して下さいました。へロデ(ヘロデ大王)が亡くなったのは、紀元前4年です。イエス様一家は長くて3年ほど、短く見積もれば数か月の間、エジプトに滞在したと思われます。

 15節には、「それは、『私(神様)は、エジプトから私の子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたが実現するためであった。」これは、旧約聖書のホセア書11章1節の引用です。そこには、こう書かれています。「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」神の民イスラエルへの、神様の愛の言葉です。エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を、神様は葦の海を割る劇的な奇跡を行ってまで、救い出されたのです。イスラエルの民もこの偉大な奇跡に、最初は感激して感謝していましたが、次第に真の神様への礼拝よりも、偶像(偽物の神)に魅かれていく罪を犯します。真の神様が悲しんで、こう言われます。「私が彼らを呼び出したのに、彼らは私から去って行き、バアル(偶像)に犠牲をささげ、偶像に香をたいた(礼拝した)。続く3~4節では、再び神の愛のメッセージが、イスラエルの民に語られます。「エフライム(イスラエル)の腕を支えて、歩くことを教えたのは、私だ。しかし、私が彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。私は人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛(重荷)を取り去り、身をかがめて食べさせた。」神様が、エジプトを脱出したイスラエルの民を、深い愛をもって養って下さったことが記されています。イスラエルの民がエジプトを脱出して40年間、荒れ野をさまよって旅した間、神様がマナや水を与えて、養って下さったのです。しかしイスラエルの民は、その神様の愛とご配慮に感謝するよりも、真の神様を捨てて、偶像礼拝(偽物の神を礼拝すること)に逸れて行ってしまうことが多かったのです。

 さて、イエス様とマリア、ヨセフの家族(聖家族と呼びます)も、ヘロデ王の魔の手を逃れて一旦、エジプトに避難されました。エジプトから、改めてイスラエルの地に戻ります。それは第二の出エジプトです。旧約聖書のイスラエルの民の出エジプトが第一の出エジプトです。それに対して、イエス様とマリア・ヨセフがエジプトからイスラエルに戻ることは、第二の出エジプトです。イエス様とマリア・ヨセフは、旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗を繰り返さないのです。旧約聖書のイスラエルの民の最大の罪は偶像礼拝と思いますが、イエス様とマリア・ヨセフは、真の神様のみを礼拝し、偶像礼拝の罪を決して犯しません。ある人はこれを「踏み直し」と呼びました。旧約聖書のイスラエルの民に似て、イエス様も出エジプトをなさいますが、その後の歩みはイスラエルの民と根本的に違うのです。旧約のイスラエルの民、最も基本のモーセの十戒を守ることができません。罪を犯してしまうのです。

 しかしイエス様とマリア、ヨセフの聖家族は違います。この聖家族、特にイエス様は、旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗を、一つも繰り返しません。そうではなく、却って旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗を取り戻し、回復させ、ある方の言い方を借りれば、「踏み直す」、「生き直す」、「やり直す」道を歩まれます。真の神様に100%従い通す、従いきるのです。イエス様こそ、イスラエルの民の真の代表者、イエス様こそが真のイスラエル人なのです。他のイスラエル人は、真に不十分なイスラエル人です。旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗の歴史は、イエス様によって踏み直され、歩み直され、生き直され、神の民が本来生きるべき姿に回復されるのです。イエス様は、権力欲が強いへロデ王が死ぬまで、エジプトにおられました。「それは、『私はエジプトから私の子を呼び出した』と主が預言者(ホセア)を通して言われていたことが実現するためであった」と書かれています。神様はエジプトからイスラエルの民を脱出させなさいましたが、このことはイエス様の第二の出エジプトによって完成されたと言えるのです。イスラエルの民も神の子たちと言えますが、彼らは不完全です。イエス様こそ全く罪のない完全な神の子です。

 完全な神の子イエス様の最大の使命は、十字架にかかることです。イスラエルの民の全部の罪と、私たち一人一人の全部の罪を背負いきって十字架で死に、復活することです。そのためにクリスマスに生まれて下さいました。私たちが過去に犯した様々な罪も、私たちがこれからの人生で、心ならずも犯してしまう一つ一つの罪も、イエス様は十字架上で背負いきって下さいました。もちろん私たちは、自分の罪を毎日悔い改めます。しかし悔い改めても、悔い改めても、まだ私たちは少しずつ罪を犯してしまいます。しかしそんな私たちの過去の罪も、将来の罪も、すべてイエス様が十字架で背負いきって下さったと知る時に、私たちはほっとして平安を受けることができます。

 16節。「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」ヘロデは、人の命を何とも思わない王でした。自分の王位を狙っているのではないかと疑って、自分の息子をさえ殺したと聞きます。ローマ皇帝アウグストゥスは、「ヘロデの息子であるより、ヘロデの豚である方が安全だ」と言ったそうです。ベツレヘムの人口はそれほど多くなかったと言われ、ある人はこの時殺された二歳以下の男の子は20名くらいではないかと推定します。しかしその家族にとっては、大変辛い出来事です。悪魔がヘロデを通して働いて、イエス様を抹殺しようとしています。私たち人間は、ヘロデのように悪魔に奉仕することもできるし、イエス様・マリア・ヨセフのように真の神様に奉仕することもできるのです。もちろんイエス様・マリア・ヨセフに倣いたいのです。

 それにしても今年は、ベツレヘム市ではクリスマスを祝わないと聞いています。現在のベツレヘムは、ヨルダン川西岸パレスチナ自治区にあるそうです。遠くないガザ地区で、10月以降に多くの子どもたちが戦争で命を落としました。それを思うと、とてもクリスマスを祝う状況ではないというのです。今年10月以降、ガザ地区で8000人の子どもたちが死亡したと報道されています。極めて異常な事態というほかありません。先に攻撃したハマスが悪いと思いますが、イスラエル側もやり過ぎの感をもちます。国連も国際社会も有効な手段を取ることができておらず、その間に犠牲が増え続けています。悪魔が猛威を振るっているように見えます。早く戦争が終わるように祈り続けるほかありません。

 17節「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。』」これはエレミヤ書31章の引用ですが、エレミヤ書31章が語ることは、神様に背いたために、紀元前586年に南ユダ王国が滅亡し、人々がバビロンへ連行されてゆく。それをイスラエルの先祖、イスラエルの母とも言うべきラケルが草葉の陰で(墓の中から)泣いて悲しんでいるということです。そのラケルの墓は、ベツレヘムへ向かう道の途中にありました。悪しきへロデの命令でベツレヘムの二歳以下の男の子が皆殺しにされたことで、ベツレヘムの近くに葬られているラケルが、墓の中から泣いているということです。当時のベツレヘムの二歳以下の男の子たちも、今のガザの子どもたちも、本人たちには殺される責任がないのに、殺されています。理不尽、不合理極まりないのです。もちろん、一番理不尽な死は、イエス様の十字架の死です。罪が全然ないのに、十字架で死刑にされておられるからです。イエス様の十字架の死こそ、史上最大の理不尽、大矛盾です。そうなのですが、だからと言って、ガザで多くの子どもが死へと追いやられている現実を見過ごすことはできません。各国の大人たちが力を合わせて、この状況をすぐに改善する必要があります。

 死んだ子どもの親たちの悲痛な心を思うとき、私は詩編56編9節の祈りを思い出さざるを得ません。「あなた(神様)は私の嘆きを数えらえたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋に私の涙を蓄えて下さい。」神様は必ず、子どもの命を奪われた親御さんたちの嘆きを受けとめ、その尽きぬ涙を神様の革袋に蓄え、その涙を受けとめていて下さるに違いありません。父なる神様ご自身も、最も愛する独り子イエス様を十字架で死なせる悲しみと辛さを耐えて下さいました。この神様だけが、子の命を奪われた親御さんたち一人一人・全員を慰めることがおできになります。

 悪魔そのもののナチスと戦って死刑になったドイツの牧師ボンヘッファーは、ナザレで殺された二歳以下の男の子たちを、幼児殉教者と呼んでいます。彼らと親たちの悲痛な気持ちを思うとき、ヨハネの黙示録6章9節以下に記された殉教者たちの叫びを連想してよいと思うのです。神様が、この男の子たちと親たちの辛さを受けとめておられ、必ずよき報いを与えて下さると信じるからです。「小羊(イエス・キリスト)が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちが立てた証しのために殺された人々の魂を、私(著者ヨハネ)は祭壇の下で見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、その一人一人に白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。」

 19節以下。「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」

 「彼はナザレの人と呼ばれる」というずばりそのものの御言葉は、旧約聖書に見当たりません。ですがいくつかの候補は挙げられています。1つはイザヤ書11章1~2節です。これは明らかにメシア(救い主)預言です。「エッサイ(ダビデ王の父)の株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」この若枝がメシア・救い主・イエス・キリストを指すことは間違いありません。救い主はダビデ王の子孫から生まれると旧約聖書で予告されているからです。この若枝が原語のヘブライ語で「ネーツェール」です。ナザレの音に近いと言えます。そこでマタイ福音書の「彼はナザレの人と呼ばれる」の御言葉は、このイザヤ書11章1節だろうと言われています。もう1つの候補は、旧約聖書の士師記13章5節です。ここにはサムソンという若者について「その子は胎内にいるときから、ナジル(ヘブライ語でナーズィール)人として神にささげられている」とあります。ナジル人とは、神様に特別に身を献げている人(献身している人)です。私たちも、神様に献身するのです。ここでもナジル(ナーズィール)人(びと)という言葉がナザレと似ていることが根拠になっています。いずれにしてもマタイ福音書には意図があり、イエス・キリストが旧約聖書の予告通りに、父なる神様のご意志によって誕生され、救い主としての使命を果たされたということです。私どもの全ての罪と失敗のマイナスの結果を取り返し取り戻し、帳消しにするために十字架にかかる。そのためにイエス様が生まれて下さった大きな恵みへの感謝を日々深める、信仰と献身の生涯を生ききりましょう。アーメン。