日本キリスト教団 東久留米教会

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2023-09-03 1:43:48()
説教「神に喜ばれることを第一に」2023年9月3日(日)聖霊降臨節第15主日公同礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書12:36a,頌栄28、主の祈り,交読詩編107:1~22、使徒信条、讃美歌21・431、聖書 イザヤ書53:1~5(旧約p.1149)、ヨハネ福音書12:36b~50(新約p.193)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌78、献金、頌栄27、祝祷。 

(イザヤ書53:1~5) わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

(ヨハネ福音書12:36b~50) イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。     イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第15主日公同礼拝です。説教題は「神に喜ばれることを第一に」です。新約聖書は、ヨハネ福音書12章36b~50節です。小見出しは「イエスを信じない者たち」です。

 先週はこの直前を読みました。イエス様の締めくくりの言葉が印象深かったと思います。「光(イエス様ご自身)は、いましばらく、あなた方の間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 そして本日の個所に入ります。36節の後半から。「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」先の42節を見ると、「議員の中にもイエスを信じる者は多かった」とあるので、イエス様を救い主と信じる人々も多かったのですが、群衆の中にはイエス様を救い主と信じない人々もいた、ということなのでしょう。不思議と言えば不思議です。この前のページを読むと、エルサレムの都に入城するイエス様を、大勢の群衆が「ホサナ、ホサナ」と叫んで大歓迎したばかりではありませんか。中には本気でイエス様を救い主として歓迎した人もいたのでしょうが、しばらくすると熱気が冷めてしまい、イエス様を真の救い主と信じなくなった人も多かったのではないかと思います。

 ヨハネ福音書は、人々がイエス様を救い主と信じなかったのは、次の理由によると記しています。「預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。『主よ、誰が私たちの知らせを信じましたか。主の御腕は、誰に示されましたか。』」これは、教会では有名な旧約聖書のイザヤ書53章の冒頭なのですね。本日の旧約聖書としてそこを選びましたので、読んでみます。ヨハネ福音書に引用されている言葉と少しだけ違いますが、もちろんほぼ同じです。「私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」これから語られるのは、「苦難の僕(しもべ)」の姿、私たちのために十字架につけられる救い主イエス・キリストのお姿です。この方が真の救い主だということを、「誰が信じられるだろうか」と53章1節は語るのです。「十字架で死んで下さる方が真の救い主だということは、あまりにも意外で、誰も思いつかない真理だというのです。

 「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」この中の一部を、口語訳聖書は、こう訳していて、私は印象的だと感じます。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔を覆って忌み嫌われる者のように、彼は侮られた。我々も彼を尊ばなかった。まことに彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った。」

 私たちは、これが、私たちのために死んで下さったイエス・キリストの十字架を指し示していると知っています。その冒頭に「主よ、誰が私たちの知らせを信じましたか」と書かれています。だれも信じない。多くの人がなかなか信じようとしないというのです。神の子が、私たちを罪と死から救うために、十字架の上で身代わりに死んで下さるということは、誰も思いつかないこと、なかなか信じていただけないこと、だというのです。私たち毎週のように教会に集う者は、これを何百回・何千回も聞いているので、やや当たり前に感じるかもしれませんが、改めて考えてみると、これは驚くべき神の自己犠牲の愛というほかありません。

 39節「彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。これはイザヤ書6章の引用です。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。私は彼らをいやさない。」この御言葉は「かたくなの預言」と呼ばれます。とても分かりにくい印象を受けます。「神は彼ら(イスラエルの民)の目を見えなくし、その心をかたくなにされた。」神が、イスラエルの民の心をかたくなになさったと読めます。すると私たちは言いたくなるのではないでしょうか。「全能の神様がイスラエルの民の心をかたくなになさったのなら、イスラエルの民はどうしようもないではないか。人々がイエス様を救い主と信じないのは、人間の責任ではなく、神様の責任ではないのか。」しかし、このうそぶいた言い方は、私たち人間の甚だしい思い上がり、神様のせいにする私たち人間の高慢・傲慢の恐るべき罪と言うべきです。

 私たちは、自分がイエス様を救い主と信じることができないのは「神様のせいだ」などとかたくなで頑固なことを言わず、素直にへりくだって、イエス様を救い主と信じ告白する方が、ずっとよいのです。神様がそれを望んでおられます。私は、新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)1章21節以下を、思い起こすのです。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人(ユダヤ人以外の異邦人の代表)は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」

 ユダヤ人には、「自分たちこそ、神様に選ばれた民」という誇りがありました。確かにユダヤ人は、神に選ばれた民なのです。選ばれたことを大きな光栄と思い、感謝して謙虚になればよいのですが、逆に選ばれた民との意識が強く、鼻高々に思い上がってしまい、かたくなになり、神様の御言葉に聴き従わなくなってしまいました。ギリシア人をはじめとする異邦人は異邦人で、自分たちは頭がよく優秀で、知恵を持っていると誇りに思っていました。両者とも自分の力による上昇志向なのです。ところが神様は、その逆のような、真の救いの道を用意して下さいました。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるし(力、奇跡)を求め、ギリシア人は知恵(知恵による自己満足)を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリスト(しかも十字架につけられたキリスト)を宣べ伝えているのです。」

 上昇志向でなく、その正反対に十字架の死にまで、徹底的にへりくだられたイエス・キリスト。このイエス・キリストを救い主と信じ告白する謙虚な人(かたくなでない人)を救い、その人に永遠の命を与える。これが神様のご意志なのです。従って私たちは、かたくなな心を捨てて、ぜひ十字架に架かって復活された真の救い主イエス様を信じる必要があります。但し、人がイエス様を救い主と信じるためには、聖霊なる神様に働いていただく必要があります。コリントの信徒への手紙(一)12章3節に、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです」と書いてある通りです。ですから私たちが隣人に伝道する時、「神様、どうかこの方の心をかたくなにしないで、聖霊を豊かに降り注いで、この方にイエス様を救い主と信じる心、告白する信仰を与えて下さい」と祈る必要があります。神様には人の心をかたくなにすることもでき、逆に人の心を素直にすることもできます。ですから私たちは、「かたくなになった人の心も、神様が働いて素直にして下さい」と神様に祈ることができ、その祈りが大切ではないかと思うのです。

 ヨハネ福音書に戻り、41節。「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」これはイザヤ書6章で、預言者イザヤが地上の神殿で、おそらく礼拝をしていたとき、天の真の神様を垣間見たイザヤの預言活動の原点の重要な経験を指しています。上の方にセラフィム(天使のような存在)がいて、各々6つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていました。彼らは互いに呼び交わし唱えたのです。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」イザヤは言います。「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、私の目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」聖書においては、人が神を見ると死ぬということがあります。神様は清い栄光に輝く完全に聖なる方、私たち人間は罪人(つみびと)。罪人(つみびと)が聖なる神を直接見ると、撃たれて死ぬのです。それでイザヤは、「災いだ。私は滅ぼされる」と叫んだのです。神を直接見ることは、罪人(つみびと)にとって耐えられない、圧倒的な体験です。しかし幸い、イザヤは撃たれて死にませんでした。イザヤは罪の赦しを与えられ、神のメッセージを語る預言者として、自分の民イスラエルの人々のもとに派遣されます。このイザヤが神を見た経験を、本日のヨハネ福音書は、「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」と述べます。私は以前、この御言葉を読んで、本当に驚きました。イザヤが見た神はイエス・キリストだと言っているからです。ヨハネ福音書は、冒頭から同じようなことを述べています。「初めに言(ロゴス=イエス・キリストを指す)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」イザヤが見た神は、父なる神様であり子なる神キリストであり、目に見えない聖霊なる神もそこにおられたに違いありません。新約聖書を読むことで、旧約聖書が初めて本当に分かるのですね。

 42節以下「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」議員とは、最高法院の議員です。彼らの中にもイエス様を信じる者は多かったが、村八分にされるのを恐れて、力をもつファリサイ派の人々を恐れて、公に言い表さなかった、つまり告白しなかったのです。それではいけません。ローマの信徒への手紙10章9節に、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と書いてあるからです。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだからである」とあります。「好んだ」は元のギリシア語で、「愛した」という言葉です。「彼らは神からの誉れよりも、人間からの誉れを愛した」のです。神様よりも、この世の方を愛したのです。使徒パウロが、テモテへの手紙(二)4章で、「デマスはこの世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまい」と書いているのを思い出しました。イエス・キリストを愛して、神の道を捨てないことが大切なのですね。

 昔見た大河ドラマで、小西行長というキリシタン大名が、豊臣秀吉のキリスト教迫害に一旦屈する場面がありました。彼が友人に「表向きは信仰を捨てて、心の中で信じていこうと思う。面従腹背だ」と言うと友人に、「それは卑怯だ」と叱られます。もう一人、高山右近と言う熱心なキリシタン大名がいて、彼は信仰を捨てないのです。高山右近は最後は徳川家康のキリスト教迫害の時に、「信仰をとるか、大名の地位をとるか」の選択を迫られ、大名の地位を捨てて信仰をとったために、フィリピンのマニラに追放され、そこで天に召されました。

 私は5年ほど前に、当時のキリシタンの「おたあ」という女性を主人公にした演劇を見ました。おたあは、豊臣秀吉の朝鮮侵略のときに、小西行長によって日本に連れ帰られた女性で、小西行長の養女になり、徳川家康の侍女になるなど、大変な人生を歩んだクリスチャンです。おたあも迫害を受け、しかし信仰を捨てないのです。信仰を捨てないとがんばる中で、「それならあなたの恋人を殺す」と言われ、さすがに動揺し、彼を助けるためには信仰を捨てることもやむを得ないかと一瞬思うのですが、そこでその恋人が叫ぶのです。「おたあ、信仰を捨てたらだめだ!」それに励まされて、おたあは信仰を捨てないのです。そして神津島という島に流される。そこで天に召されただろうと長年考えられていましたが、最近資料が新たに発見され、晩年は長崎で暮らしていたらしいことが分かりました。信仰を守っていたと思います。迫害の時代に信仰を守り通した勇敢な人々の話を聞くと、私たちは今でも大変励まされるのですね。彼女ら、彼らは「人間からの誉れよりも、神からの誉れを愛した」のです。本日の説教題「神に喜ばれることを第一に」は、その意味です。

 一昨日の9月1日(日)は関東大震災からちょうど100年でした。真に残念なことにデマを信じて朝鮮人、中国人殺害が起こりましたが、ほっとする話もあります。あるクリスチャンの社長の会社でも朝鮮半島出身の2人の少年が働いていました。自警団が来て、「朝鮮人を出せ。殺す」と言いました。社長は「あの若者たちはもういない。いても、何の罪もないのに渡すことはできない。まず私を殺しなさい」と言うと、相手は引き揚げました。あるお菓子会社のクリスチャン社長は、会社の菓子やミルクをどんどん被災者に配りました。幹部に反対されても、「今こそ、神様とお客様にお返しするときだ」と実行しました。神戸にいた賀川豊彦という著名な牧師・社会事業家は、数日後に東京に来て、仲間の人々と共に救援活動を始めました。大きな苦難の中で、信仰によって生きた人々の姿は、全体の苦難が大き過ぎる中で、小さくてもキリストの光を感じさせます。

 イエス様は、44節以下で懸命に叫ばれます。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」ですから、イエス様はこうもおっしゃいます。今月の礼拝の「招きの言葉」です。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」真の光であるイエス様を、心より信じましょう。アーメン。


2023-08-27 2:02:22()
説教「光のあるうちに、光を信じなさい」2023年8月27日(日)聖霊降臨節第12主日礼拝  
順序:招詞 エフェソ2:14~16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編106、使徒信条、讃美歌21・205、聖書 詩編89:2~5(旧約p.926)、ヨハネ福音書12:27~36(新約p.192)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌502、献金、頌栄92、祝祷。 


(詩編89:2~5) 主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に/あなたのまことを告げ知らせます。わたしは申します。「天にはとこしえに慈しみが備えられ/あなたのまことがそこに立てられますように。」「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った。あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」

(ヨハネ福音書12:27~36) 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第14主日公同礼拝です。説教題は「光のあるうちに、光を信じなさい」です。新約聖書は、ヨハネ福音書12章27~36節です。小見出しは「人の子は上げられる」です。

 この直前の個所でイエス様は、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という有名な言葉を述べられました。そして今日の最初の27節でイエス様は、「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救って下さい』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。」マタイ福音書とマルコ福音書には、十字架の前夜の、イエス様の「ゲツセマネの祈り」の場面があります。ルカ福音書では、「オリーブ山で祈る」場面ですが、内容はほぼ同じです。このヨハネ福音書には、「ゲツセマネの祈り」の場面がありません。しかしその代わりのように、この場面があります。今日の個所は「ヨハネによる福音書のゲツセマネ」と呼ばれるそうです。

 イエス様は「今、私は心が騒ぐ」と正直に言われました。イエス様でさえも、十字架を目の前にして心に葛藤を覚え、心がが動揺しているのです。イエス様は100%神の子であり、同時に100%人間です。人間としてのイエス様が、十字架にかかることを喜べないのは、当然と言えます。マタイによる福音書の「ゲツセマネの祈り」の場面を見ると、イエス様は悲しみ、もだえ始められ、「私は死ぬばかりに悲しい」と言われました。これは「私は心が騒ぐ」と言われることと重なります。

 イエス様はさらに自問自答して言われます。「『父よ、私をこの時から救って下さい』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。」マタイによる福音書ではイエス様は祈って言われました。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」この両者もよく似ていると思います。人間の正直な気持ちとしては「父よ、私のこの十字架の時から救って下さい」と祈りたいとの正直な気持ちを叩き伏して、「しかし、私はまさにこの時のために、十字架の時のために来たのだ」と、葛藤を乗り越えて、使命を果たす道を選び取られます。

 そしてイエス様は、「父よ、御名の栄光を現して下さい」と祈られます。これはゲツセマネの祈りの「父よ、私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」に対応すると思うのです。「御名の栄光を現して下さい」と「あなたの御心が行われますように」は、ほぼ同じ意味だと思います。「父なる神様、何よりもあなたの御名の栄光を現して下さい。あなたの御心が行われますように」という祈りだと思うのです。

 このイエス様の祈りが、父なる神様に喜ばれました。天から声が聞こえたのです。「私(父なる神様)は既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」これまでのイエス様の愛の奇跡、水をぶどう酒に変え、38年間歩けなかった人を歩けるようにした愛の業、男だけで約5000人の群衆を満腹にした愛の業、ラザロを復活させた愛の業、これらによって父なる神様の栄光が現されました。そして今、イエス様が十字架に架かられ、父なる神様に従い通すことで悪魔の支配を打ち破ることによって、再び神様の栄光が現されようとしています。天から神の声が聞こえた場面は、イエス様が洗礼を受けられたとき、イエス様が4人の弟子たちだけを連れて、高い山に登られた場面と、今の場面の3回だと思います。3回とも重要な場面なのですね。

 29節「そばにいた群衆は、これを聞いて、『雷が鳴った』と言い、ほかの者たちは『天使がこの人に話しかけたのだ』と言った。」雷が鳴るようなとどろき渡る声だったのです。私たちに神様の御声が聞こえる場合、「しずかなささやく声」で聞こえることも多いと思います。ですがこのときのように、雷が鳴り渡るような声であることもあると分かります。出エジプト記19章の十戒が与えらえる直前の場面では、「モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた」とあります。旧約聖書のアモス書3章8節には、「獅子がほえる 誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる 誰が預言せずにいられようか」とあり、神様の言葉が獅子・ライオンのようなとどろく声だと言っているようです。神様は雷が鳴るような、とどろく強烈な声で、「私は既に栄光を現した。再び栄光を現そう」と語られました。今こそイエス様の十字架の時であることを宣言されたと言えます。

 イエス様が言われます。30節以下「この声が聞こえたのは、私のためではなく、あなた方のためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」「今こそ、この世の支配者が裁かれる時。」この世の支配者は悪魔、サタンです。エバとアダムが神様の御言葉に背き、悪魔の誘惑に負けて、悪魔に従って罪を犯したときから、人間と世の中は、悪魔の支配下に落ちてしまいました。悪魔がこの世界支配するようになったのです。残念ながら悪魔が生きてまだ働いています。戦争があり、殺人などの犯罪も起こります。人が悪魔の誘惑に負けて、罪を犯してしまっています。しかしイエス様の十字架の死と復活の時、悪魔はイエス様に完全に敗れ去ったのです。それはイエス様が十字架という最大の苦難に遭いながらも、ただの一度も罪を犯さなかったからです。悪魔はイエス様を全力で誘惑したはずですが、イエス様は地上の生涯の約33年間、十字架の上でも、ただの一度も悪魔の誘惑に負けて罪を犯すことがありませんでした。こうして悪魔はイエス様に敗れ去り、世界を支配する力を完全に失いました。悪魔の敗北は決定済です。悪魔は、世の終わりに神の国が完成する時に、完全に滅亡することが決定済です。但し、その時まで、最後の悪あがきをするので、私たちも悪魔の誘惑に負けないように注意する必要があります。日々聖書を読み、祈り、礼拝し、イエス様に従うことで、悪魔の誘惑を退けてゆきたいのです。

 「『私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。』イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」「地上から上げられる。」それは第一に、イエス様が十字架に上げられることを意味します。そして第二に、十字架の死の三日目に復活され、天に昇られることを意味します。エフェソの信徒への手紙4章10節によると、イエス様は「もろもろの天よりも更に高く」昇られました。今もそこから私たちに聖霊を注いで、信じる心を与えて下さっています。王の王、主の主として「もろもろの天よりもさらに高い天」におられます。イエス様はヨハネ福音書3章14節でこう言われます。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(イエス様)も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」これは旧約聖書の民数記で、イスラエルの民が神様とモーセに逆らって不満をぶつけたときに、神様が炎の蛇を民に送られ、蛇が民をかみ、多くの死者が出ました。民が蛇を取り除いてほしいとモーセに頼むと、モーセは神に祈りました。神様の指示に従って、モーセが青銅で一つの蛇を造り、旗竿の上に掲げました。すると蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、助かって命を維持することができました。それと同じように、十字架に上げられ、死と復活を経て天に上げられたイエス・キリストを信じ、イエス様を仰ぐ人は、永遠の命を受ける。これがヨハネ福音書のメッセージです。
 
 34節「すると、群衆は言葉を返した。『私たちは律法によって、メシア(救い主)は永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられねばならない、とどうして言われるのですか。その「人の子」とは誰のことですか。』」これは、本日の旧約聖書である詩編89編などを指しての言葉のようです。当時、旧約聖書は「律法、預言者、諸書」から構成されると理解されていました。律法は旧約聖書のことと言えます。詩編89編4~5節にはこう書かれています。神様がダビデ王に誓った。「あなた(ダビデ)の子孫(メシア(救い主))をとこしえに(永遠に)立て、あなたの王座を代々に備える。」人々はこれを、「メシアはイスラエルの王として永遠にイスラエルにいる」と理解していました。それで、「メシア(救い主)が上げられて、イスラエルにいなくなるとは変ではないか」と思ったのです。

 群衆は、イエス様が十字架に架かられることの意味が分からなかったので、こう言いましたが、イエス様は重要なメッセージをお語りになります。35節以下「イエスは言われた。『光は、いましばらく、あなた方の間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。』」イエス様は、このヨハネ福音書9章でも、「私たちは、私をお遣わしになった方(父なる神様)の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である。」「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」光とは、イエス・キリストです。イエス様は「私は世の光である」と宣言されました。イエス様は、私たちの全部の罪を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活されました。自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける人は皆、全ての罪を赦されて、父なる神様との和解に入り、神の子になることができます。父なる神様との和解に入るということは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるまでは、父なる神様に背いていて、父なる神様と和解していなかったことになります。和解していないので、平安がなかった。しかし光であるイエス様を信じて洗礼を受ければ、父なる神様との和解の平安に入るのです。

 クリスチャン作家の三浦綾子さんの本に、『光あるうちに』というとてもよい本があります。三浦さんがクリスチャンになったプロセスを記した『道ありき』の三部作の三冊目で「信仰入門編」の副題です。トルストイというロシアの文豪がいましたが、晩年なるほどに深い信仰に進み、イエス様に従う道に進み、最後は本当に貧しくなって野垂れ死にに近かったようです。そのトルストイも、『光あるうちに、光の中を歩め』という小説を書いています。クリスチャン青年と、その逆に俗世間にどっぷり浸かって生きるユリウスという青年が出てきます。俗世間に生きるユリウスはクリスチャンになろうかなと思いながらも、そのたびに疑いや迷いに負け、欲望や野心、功名心のこの世に舞い戻るのですが、年取ってからある人がヨハネ福音書の御言葉を語ってくれます。ヨハネ福音書3章19節以下です。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光のほうに来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」長い迷いの末に、遂にクリスチャンになり、喜びに満ちて最後の20年間を生きた、というストーリーです。

 そもそもヨハネ福音書の冒頭に光が出て来ます。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光りを理解しなかった。」口語訳では「闇はこれ(光)に勝たなかった」です。これはイエス・キリストが悪魔と罪と死に勝利したことを述べています。光と聞くと、私は広島で原爆に被爆したサーロー節子さんという方の体験を思います。カナダ人と結婚されて、カナダで生活しながら「核兵器は、人類が持ってはならない、絶対の悪なのです」と核兵器廃絶運動に情熱的に取り組んでおられます。13才で被爆され、16才で洗礼を受けたそうです。原爆が投下され、「気がついたとき、あたりは音もなく真っ暗でした。私は倒れた建物の下敷きになって動けなくなっていました。どこからともなく、級友たち(広島女学院)の弱弱しい声が聞こえてきました。『お母さん、助けて。神様、助けて下さい。』突然だれかの手が私の左肩をぐいとつかみ、男の人の声がしました。『あきらめるな。動いて行け。今助けるから。光が見えるだろう? そこまで這って行くんだ。』」やっと建物の下敷きから這いでると、外には想像を絶する光景が広がっていました。それにしても「光が見えるだろう? そこまで這って行くんだ」との励ましの言葉が印象的です。それは物理的な光でしょうが、神様がその光を見せて下さったと思えてなりません。

 私が光という言葉でふと思い出すのは、今もあるのですが、長年続いているカトリックのラジオ放送に「心のともしび」という放送があります。ハヤット神父という方が始めたようです。この放送のモットーの言葉があり、「暗いと不平を言うよりも、進んで明かりをつけましょう」の言葉が、毎回最初に語られます。

 暫く前に「ちいろば先生」と呼ばれた榎本保郎牧師のことを少しお話しましたが、榎本先生はだいぶ前に天国に行かれましたが、つい最近、奥様の榎本和子さんが97才で天に召されたと伺いました。三浦綾子さんが書かれた榎本牧師の伝記小説『ちいろば先生物語』の最後に、榎本牧師のおそらく最後の日曜礼拝説教が引用されています。「私たちの生活にとって必要なものは色々あるが、最も必要なものは神の国であることを覚え、神の国の招待に応えることを第一にして行きたいと思う。」何よりもイエス様がこうおっしゃいます。「光の子となるために、光のあるうちに、光を(イエス・キリストを)信じなさい。」この御言葉に従って参りましょう。アーメン。



2023-08-13 1:20:10()
「わたしたちは神の作品」2023年8月13日(日)聖霊降臨節第12主日公同礼拝
順序:招詞 エフェソ2:14~16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編104、使徒信条、讃美歌21・17、聖書 創世記1:26~31(旧約p.2)、エフェソの信徒への手紙2:1~10(新約p.353)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌515、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 


(創世記1:26~31) 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

(エフェソの信徒への手紙2:1~10)さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。


(説教) 本日は、聖霊降臨節第12主日公同礼拝です。説教題は「わたしたちは神の作品」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙2章1~10節です。小見出しは「死から命へ」です。エフェソの信徒への手紙は、イエス様の弟子・使徒パウロが書いた獄中書簡の1つとされています。6章20節に「私はこの福音の使者として鎖につながれています」と書かれているからです。

 エフェソの信徒への手紙は、ローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙(一)(二)、ガラテヤの信徒への手紙に比べると、あまり多く取り上げられない手紙のように思います。しかし、本日の個所には、父なる神様が私たちに、イエス・キリストによって与えて下さった恵みが、どんなに大きな恵みかが、真に力強く記されています。第1節「さて、あなた方は、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」これは私たちが、神様に教えられて、聖書に教えられて、初めて気づくことです。私たちはイエス・キリストを救い主と信じて、罪の赦しの恵みを受ける前も、自分が死んでいたとまでは思わないでしょう。むしろ一生懸命生きていたと思う方の方が多いのではないでしょうか。しかしはっきり言えば、ここに書いてある通り、「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」のです。人類の先祖(代表とも言える)エバとアダムが、悪魔の誘惑に負けて、神様の御言葉に背きましたが、その時以来、私たち人間は皆、罪(原罪)を背負った状態で生まれて来るのです。旧約聖書の創世期は、エバとアダムが神様に背く罪を犯したために、神様はエバとアダムをエデンの園(楽園)から追放したと書いています。これによって人類は、神様からの祝福を失い、罪と苦労と死を帯びて、生きるしかないようになりました。実際私たちは、人を殺すような罪を犯すことがなくても、日々ぶつぶつ不平不満を言い、あまり感謝せず、時に人を心の中で嫌ったり憎んだり、悪口を言って過ごしていることが少なくないのではないでしょうか。それを今日の御言葉は、私たちが「自分の過ちと罪のために死んでいた」と言い当てています。

 2節「この世を支配する者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊(悪霊、悪魔)に従い、過ちを罪を犯して歩んでいました。」「この世を支配する者、この世の支配者」は悪魔です。残念ながら悪魔も生きて働いています。真の神様が、この世界を最終的に支配しておられます。しかし悪魔も働いており、悪魔はエバを誘惑して神様に背く罪を犯させることに成功しました。それ以来、悪魔が人間を支配しています。しかし人間は悪魔の支配に反抗し、神様に従って生きるように、神様から力強く招かれているのです。私たちは、これまでの罪を悔い改めて真の神様に従い、悪魔には早く滅びてほしいと願っています。悪魔は、イエス・キリストが十字架で死なれ、復活したときに、イエス・キリストに完全に敗れました。今も活動していますが、悪魔の敗北はもはや決定済みで、イエス・キリストがもう一度地上に来られて神の国が完成する時に、悪魔が完全に滅びることは決定済です。悪魔は今は最後のあがきをしているので、私たちは油断せず、悪魔の誘惑を退けながら生きるのです。

 3~4節も、私たちの過去の生き方を述べています。「私たちは皆、こういう者たち(悪魔に従って、過ちと罪を犯している者たち)の中にいて、以前は肉(自己中心)の欲望の赴くままに生活し、肉や心(自己中心の心)の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」かなり手厳しい御言葉ですが、この通りなのだと思います。神様は罪人(つみびと)である私たちを憐れんで愛しておられますが、罪そのものを明確に憎んでおられます。私たちも毎日少しずつ罪を犯して生きて来たので、「ほかの人々と同ように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」そのままでは、私たちは滅びるほかなかったのです。

 ところが続く4節の最初に「しかし」とあります。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生は、聖書の中のこのようなしかしを「大いなるしかし」と呼ばれたと聴きました。この「しかし」が、ここまでのマイナスの流れをひっくり返すのですから、「希望のしかし」と言ってもよいですね。4~6節「しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、―あなた方の救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。」憐れみ豊かな神は、私たち罪によって死んでいた者たちを、この上なく愛して下さり、その愛によって独り子イエス・キリストを地上に誕生させ、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負わせて、十字架の死に追いやりました。ここに真の愛があります。神に敵対していた私たちを敢えて愛した愛ですから、これは敵を愛する愛です。

 こうしてイエス様の十字架の犠牲の愛のお陰で、私たちは復活されたイエス様と共に、復活の命に生きる者とされたのです。自分の罪を悔い改めて洗礼を受けることで、私たち罪人(つみびと)は、キリストと共に新しい復活の命に生き始めることができます。5節を文語訳聖書は、「咎によりて死にたる我等をすら、キリスト・イエスに由りてキリストと共に活し」と訳しています。「咎によりて死にたる我等をすら」、「すら」という言葉を用いています。ここには「こんなに罪深い私たちをすら」、父なる神様はイエス様の十字架によって救って下さったという、パウロの感動が伝わります。私たちは自分の罪はそれほどひどくはないと考えているかもしれませんが、神の子イエス様が身代わりに十字架で死んで下さることなしには、自分の罪は決して赦されなかったとの現実を、深く考えてみる必要があるのです。

 5節に、「あなた方の救われたのは恵みによるのです」とも書かれています。自力によって救われたのでは、全くないということです。100%神の恵み、イエス様の十字架の死と復活の恵みによってのみ救われ、永遠の命を受けました。自力は0%です。どんな立派な人でも、100%神様の恵みによってだけ救われるのであって、自力の部分は0%なのです。9節にある通り、それは「誰も誇ることがないため」なのです。6節「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。」イエス様は復活された40日目に天に昇られ、天の王座に着かれ、今もそこで生きておられ、今日もそこから聖霊を注いで下さいます。私たちも地上の人生を終えた後に、同じ天の王座に着かせていただくと約束されているのです。これは大変畏れ多く、信じがたいほど光栄なことです。これはイエス様がヨハネの黙示録3章21節でおっしゃっていることと同じです。「勝利を得る者(試練の中でも最後まで信仰を捨てなかった者)を、私は自分の座に共に座らせよう。私が勝利(復活の勝利)を得て、私の父と共にその玉座に着いたのと同じように。」

 7節「こうして、神は、キリスト・イエスにおいて私たちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです。」口語訳聖書では、こうなっています。「それは、キリスト・イエスにあって私たちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。」「神の恵みの絶大な富」という言葉が、非常に心に刺さります。イエス様が私たちの罪の責任を担って身代わりに死んで下さった事実は、神様から私たち罪人(つみびと)に与えられた「神の恵みの絶大な富」だというのです。「私たちは神から絶大な富をいただいた。」この表現から、やはりパウロの深い感動が伝わって来ると思うのです。私たちは、心の鈍い者かもしれませんが、イエス様の十字架の絶大な愛に日々感謝を深める者でありたいのです。

 8~9節「事実、あなた方は恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」私たちは「恵みにより、信仰によって救われた(永遠の命を受けた)。これは神からの贈り物であり、自分の努力で獲得したものではない。」これこそ、プロテスタント教会が強調する「信仰義認の真理」ですね。信仰義認を言い換えると、「恵みのみ、信仰のみ」です。私たちのどんなよい行いも、自己中心の罪に汚れているので、それによって永遠の命を獲得することはできない。ただ神から恵みとして提供された「イエス・キリストの十字架の身代わりの死」を素直に受け入れ、信じる信仰によってのみ、救われるのです。「それは誰も誇ることがないためだ」と書かれています。自分の努力でよい行いを行い、永遠の命を勝ち取ったのなら、自分を誇りたくなります。でもそれはできません。努力で永遠の命を勝ち取ることができないからです。私たちは自分を誇るのではなく、私たちのために十字架につけられたイエス・キリストのみを、誇るのです。

 10節「なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです。」「私たちは神に造られたもの」とあります。口語訳では「私たちは神の作品」、一番新しい訳・聖書協会共同訳でも「私たちは神の作品」です。私たちは、神様が真心を込めて造って下さった貴重な一人一人です。しかも一人一人は違います。世界中見渡せば、肌の色も様々、髪の毛の色・目の色も様々、言葉も様々。でも神様が真心こめて造って下さった貴重な一人一人です。いわゆる障がいがあっても、それは個性と思えば見方が変わるかもしれません。年を重ねれば、私たちは誰でも能力が落ちてくるのが普通でしょう。

 私たち人間が神の作品と言うとき、創世記1章26節以下を読みたくなります。本日の旧約聖書です。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。」神様はお一人なのに、「我々」とおっしゃっているのが不思議です。いくつかの説がありますが、1つは「創世記の著者が人間創造の重要性を表すために、神がその創造にあたってご自身と相談されたように描いた。」私たちも重要なことを決める時に、祈ることはもちろんですが、同時に自分の中でじっくり考える、もう一人の自分とよく対話し相談することもあると思います。こう考えると神が「我々」とおっしゃっていることは、「神の熟慮」を言い表していると思うのです。古代の信仰の指導者たちは「我々」は父・子・聖霊なる三位一体の神様のことだと解釈したそうです。旧約聖書には子なる神イエス・キリストは登場しませんが、父なる神様と聖霊なる神様は登場しますから、「我々」は「父なる神様と聖霊なる神様」を意味すると考えることはできます。キリストも旧約聖書には直接登場しないけれども、天地創造の前から生きておられるのですから、この我々に含まれると考えてもよいと思います。

 そして大切なことは、人間が「神にかたどって創造された」と2回繰り返され、「神にかたどって創造された」ことの重要さが強調されていることです。そして「男と女に創造された。」これが最初の姿だったのでしょうが、今の時代は性の多様性が表立って語られる時代になり(実際はずっと前から多様だったはず)、「男と女に創造された」と現実の差をどう考えるか、私たちも祈ってじっくり考える必要があります。いずれにしても、人間をお造りになって神様は、彼らを祝福されました。そして改めてご自分が造った世界を見渡したところ、「見よ、それは極めて良かった」と記されています。それまでは創造の業が進むたびに「神は見て、良しとされた」と5回記されています。人間が創造されて初めて、「見よ、それは極めてよかった」とあり「極めて」の言葉によって、人間を造って神様が大変喜んでおられることが分かります。一人一人が皆、神様に似せて造られた神様の尊い作品です。尊厳があるのです。神にかたどって造られたことを、「神の似姿」と呼びます。ラテン語で「イマゴ・デイ」、イマゴは英語ではイメージ、デイは神ですので、「神のイメージ」に私たち人間は造られたことになります。

 神様と人間は、どこが似ているのでしょうか。似ていないところもあります。父なる神様は霊であり、肉体を持っておられません。そこは人間と違います。似ていることをいくつか挙げると、「言葉によってコミュニケーションを行う」、「愛することを知っている」「責任ということを知っている」等と思います。

 神にかたどって造られた人間の尊厳について、詩編8編が見事に語っています。「あなた(神様)の天を、あなたの指の業を私は仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子(人間)は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足元に置かれました。」

 エフェソに戻り10節。「私たちは神に造られたもの(作品)であり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです。」神様の悲しみは、神に似せて造られた私たち人間が、神様に背いて罪に転落したことです。神様はその私たちを救うために、イエス・キリストを十字架を死なせて、信じる私たちの罪を完全に赦して下さいました。そして神様の清き霊である聖霊を私たちに注いで、私たちを修復し、イエス様に似た者となるように、私たちを造り変えて下さいます。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人たちは、聖霊によって徐々にイエス様に似た者へと造りかえられてゆく途上に、今あります。私たちは神の尊い作品として、もう一度造り直されつつある途上にいます。聖霊に満たされて、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する思いになるので、神の愛への応答として、善い業を行って歩むようになっています。善い行いを行うことで永遠の命を獲得することはできないのですが、イエス様の十字架の愛への感謝の応答としては、喜んで善い業、愛の業を行って生きているのです。神の作品が善い業を行わないことはありません。

 昨日、西東京教区の社会部主催の会があり、私はオンラインで参加しました。日本に避難しているウクライナの人々をサポートする働きをしておられるYMCAの女性クリスチャンの情熱的な報告でした。今日本には約2100人のウクライナ人が避難して来ているそうです。三鷹市や杉並区にもおられるそうです。日本にいる家族や知人を頼って来る人が多い。支援には段階があり、①緊急支援、②生活スタート支援、③生活個別支援、④中長期定住支援。日本で長期に暮らすとなると、日本語の勉強、学校や職場を得る、持病の治療を受ける等が必要になります。3年以内の経済自立を目指すそうですが、かなり大変です。日本社会の愛が問われます。子どもたちは、日本の学校に行くと共に、世界各国に避難しているクラスメートや先生と、オンラインで授業を受けているそうです。避難民をサポートするYMCAの働き、これも神の作品の方々のよき働きだと尊敬の念を抱きました。アーメン。

2023-08-05 23:16:07(土)
「一粒の麦として生きる」2023年8月6日(日)平和聖日公同礼拝礼拝
順序:招詞 エフェソ2:14~16,頌栄29、主の祈り,交読詩編103、使徒信条、讃美歌21・188、聖書 詩編126:5~6(旧約p.)、ヨハネ福音書12:20~26(新約p.192)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌510、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(詩編126:5~6)涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

(ヨハネ福音書12:20~26)さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

(説教) 本日は、平和聖日公同礼拝です。説教題は「一粒の麦として生きる」です。新約聖書は、ヨハネ福音書12章20~26節です。

 この直前の個所を先週の礼拝で読みましたが、それはイエス・キリストが、なつめやしの枝(しゅろの枝)を振る人群衆に歓迎され、ろばの子に乗って、エルサレムの都に入られる場面でした。それは日曜日の出来事、イエス様が十字架に架けられる金曜日の5日前の出来事でした。

 本日はその続きの個所ですが、同じ日の出来事かどうかは、分かりません。最初の20節から。「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。」ユダヤ人でない外国人のギリシア人が何人か、エルサレムにいたのです。もしかすると彼らもユダヤ人の信仰に憧れ、礼拝するために外国から来ていたのかもしれません。イエス様が大群衆に歓迎される様子を見て、この方こそ本当にイスラエルの真の王、イスラエルと世界の真の救い主と思ったのかもしれません。自分たちは外国人だから、いきなり直接イエス様の元に行って話をするのは、憚られたのかもしれません。へりくだってイエス様の弟子のフィリポに、取次ぎを頼みました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。」フィリポは行って、同じ弟子のアンデレに話し、アンデレとフィリポが二人で行って、イエス様に話しました。

 23節「イエスはこうお答えになった。『人の子(ご自分)が栄光を受ける時が来た。』」イエス様の場合の栄光は、十字架に架かるという栄光です。十字架こそ、イエス様にとって栄光です。24節は有名な御言葉であり、本日の中心聖句と言えます。
「はっきり言っておく(直訳:アーメン、アーメン、私はあなた方に言う=非常に重要なことを語るときの前置き)。『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。』」一粒の麦は、まずはイエス・キリストご自身です。イエス様ご自身が、一粒の麦として十字架で死なれ、私たちのためにご自分の尊い命を献げて下さいました。イエス様は、一粒の麦として死なれたのですが、父なる神様は三日目に復活の勝利を与えて下さり、イエス様の十字架の死は実を結んだのです。それだけでなく、イエス様を救い主と信じ告白して、自分の罪を悔い改める人に、父なる神様は永遠の命を与えて下さいます。イエス様は、私たち皆の、全部の罪を身代わりに背負って、十字架で死なれたからです。それでイエス様を救い主と信じて、永遠の命を受ける人々が、次々と大勢現れたのです。その意味でも、イエス様の十字架の死は、数えきれないほど多くの実を結びましたし、今も多くの実を結び続けています。

 25節「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」この場合の「自分の命」とは、自己中心的に生きようとする罪深い命のことです。私たちは、神様に愛されている自分を正しく愛することはとても大切で、ぜひ必要なことです。しかし自分勝手に生きたくなる私たちの生まれつきのわがままな心を愛することは罪です。このような問題ある愛を「自己愛」と呼びます。自己愛は罪です。自己中心的に生きたくなる私たちの罪を愛してはいけません。逆に自己中心に生きたくなる自分自身の罪、自己愛を憎むことが必要です。自己愛に突き進めば、死と滅びに至り、永遠の命に至ることができません。

 反対に、この世界で「自分の命を憎む人」=「自己愛の罪を憎む人」は、永遠の命に至ることができます。永遠の命とは、永久に物理的に何億年も何百兆年もこの地上で生きるということではありません。そうではなく、むしろ命の質のことと言えます。永遠の命とは、自己中心に生きる命ではなく、「神様をひたすら愛し、隣人をひたすら愛する命」です。完全に純粋な永遠の命に生きている方は、イエス様だけです。私たちは、まだある程度、自己中心的に生きています。しかし、神様に祈り、聖書の御言葉を心の中に蓄え、聖霊なる神様に助けていただくことで、徐々に清められ、徐々に自己中心を抑えることができるようになります。できるだけ自己中心の罪を心の中から追放し、「神様を愛し、隣人を愛し」、遂にはイエス様のように「敵までも愛する」ように進みたいのです。これは一生の目標です。この地上に生きる限り、100点を取ることはできなくても、少しでもイエス様の人格に近づけるように祈り、心がけます。

 26節「私に仕えようとする者は、私に従え。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父(父なる神様)はその人を大切にして下さる。」プロテスタント教会は「信仰義認」を強調します。「信仰義認」とは、「ただイエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、義とされる」「よい行いによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰によってのみ、父なる神様の前に正しい者と認められる」ということです。もちろん「信仰義認」は正しい。ですが信じた人は、イエス様が私たちを愛して十字架で死なれた十字架の愛に、応答する生き方に進みます。応答が大切になります。そのことを、ローマの信徒への手紙12章1節が、次のように示しています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。」イエス様ご自身も、弟子たちにこのように語っておられます。マタイ福音書16章24節。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」そして、イエス様に従い、イエス様に仕える人を、父なる神様は大切にして下さると、イエス様は本日のヨハネ福音書12章26節で、恵みの約束を与えておられます。

 「一粒の麦」として生きた方は、少なくありません。お一人思い出すのは、藤崎るつ記さんという女性です。24歳の若さで天国に行かれたので、私はお会いしたことはありません。お父様は、もう天国に行かれた日本キリスト教団日立教会の藤崎信牧師です。私は茨城県の教会で洗礼を受けましたから、藤崎先生の説教も30年ほど前に一度伺う機会がありました。娘さんのるつ記さんは、もっと前に天国に行っておられました。藤崎先生の説教の言葉はほとんど覚えていません。たった1つ印象に残っているのは、「聖書の精神パッ!」と言って、両手を結んでからパッと開く動作を何回かなさったことです。「聖書の精神パッ!」欲望に執着せずに、手放しなさいというメッセージと受けとめました。日立で行われた茨城地区の集会でもお姿を拝見したことがありますが、娘さんを天に送られてから時間がたっていたとはいえ、素朴な笑顔でニコニコしておられて、私は「すごいなあ」と思ったものです。
 
 るつ記さんというお名前は、旧約聖書の「ルツ記」から取られています。ルツはそこに登場する女性です。藤崎るつ記さんは、三鷹市の日本ルーテル神学大学(今はルーテル学院大学)で福祉を学ばれ、インドのマザーテレサの施設でボランティアをして、「アジアの貧しい方たちと共に歩む」願いを強められました(『るっちゃんの旅立ち』キリスト新聞社、1984年)。フィリピンの大学への留学を志し、ルソン島のボトランという所でボランティアをされました。一時帰国を前に1983年4月に、海岸で送別会が開かれたのですが、その最中に海流が急変し、フィリピン人の少女二人が海で溺れたそうです。泳ぎが上手だったるつ記さんが駆け付けると、二人にしがみつかれて、溺れました。結果的に二人は助かりましたが、るつ記さんは24才の若さで天国に旅立たれました。1983年4月2日です。ちょうど40年前です。

 日本人の若い女性が、フィリピン人を助けて命を落としたことは、フィリピンの人々に驚きを与えたようです。ご遺体は純白の衣装に包まれ、花で飾られ、教会での告別式には6人もの司祭(カトリックの国)が祭壇に立ったそうです。お父様の藤崎信牧師とご夫人でお母様の藤崎一枝さんももちろん参列です。るつ記さんが籍を置いていたフィリピンの神学校の学長は告別式の挨拶で、「日本人に対する我々の感情は決してよいものではない(太平洋戦争でフィリピンは多くの被害を受けた)。しかし、これからは、フィリピン人のために生命を捨ててくれた日本人があることを決して私たちは忘れない。彼女の奉仕は、フィリピンと日本を結ぶ掛け橋になった。私たちは歴史から自由になれないが、新しい世代は、もっと新しい関係を打ち立てるべきだ」と言われたそうです。確かにるつ記さんの死は、「一粒の麦」となりました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」

 またある女性は、「るつ記さんの死を通して、天に宝を積むことの意味が、はっきり分かった」と語ったそうです。これは、マタイ福音書6章19節以下のイエス様の御言葉です。「あなた方は地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富(宝)は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」「富(宝)は、天に積みなさい。」私も久しぶりに、この御言葉に触れました。るつ記さんの生き方は、まさに「富(宝)を天に積む」生き方でした。私たちも、少しでもそのような生き方をしたいのです。
 
 るつ記さんの死を生かすため、日立教会は「るつ記記念基金」を設けて、フィリピンの貧しい青年たちが専門教育を受ける支援を始められ、今日に至っています。その基金の最近の説明書によると、その献金は「日立教会が運営管理し、チャイルドファンド・ジャパン及び日本聖書神学校を通して、貧しさのために専門教育を受けられずにいるフィリピンの青年たちのための奨学金として用いられています」と書かれています。るつ記さんにフィリピンへの留学をアドヴァイスなさったのは、ルーテル神学大学の大谷嘉朗先生という方だったようですが、この方は実は東久留米教会初代牧師の浅野先生の眞壽美夫人の恩師でもあるようです。大谷先生は、フィリピンへの応援に使命感を持って取り組まれ、チャイルドファンドジャパンの前身の国際精神里親運動の責任を担っておられたようです。おそらく大谷先生の感化の下に浅野眞壽美先生のもしかするとご提案もあって、東久留米教会は婦人会を中心に国際精神里親運動(今はチャイルドファンド・ジャパン)に協力して、今日に至っているのではないかと思います。長年地道にこの運動に協力して来たことは、とてもよいことだと思うのです。先週の週報にはジェヴェリン・ガランさんの高校卒業・大学進学の感謝のメッセージを掲載しておりますが、これも地道な働きが「豊かな実を結んだ」一つの実りだと思うのです。

 本日の旧約聖書は、詩編126編5~6節です。「一粒の麦」の御言葉と響き合います。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰って来る。」

 東久留米教会の会員で、20年ほど前に天に召された児玉さんは、日立教会で洗礼を受けた方でした。るつ記さんを知っておられたようです。私がるつ記さんの話をすると涙ぐんでおられました。ある伝道師の方が書いているのですが、「るつ記さんは、現実にはフィリピンで亡くなったけれども、実はフィリピンに行く前から死んでいた。自分自身に死んでいた」と。自己愛に死に、神様と隣人への愛に生きていたいうことです。「るつ記さんはフィリピンで死んだけれども、実は今も生きている。復活の主イエス様と共に、今も生き続けている。」天国で生きておられます。

 イエス様の御言葉をもう一度味わいましょう。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は、私に従え。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。」私たちは藤崎さんほど立派に生きられないかもしれませんが、一人一人にできる形で、イエス様に従って参りましょう。アーメン。
 


2023-08-03 18:52:27(木)
伝道メッセージ 7月分 石田真一郎(市内の保育園の『おたより』に掲載)
「隣人を自分のように愛しなさい」(新約聖書・マタイによる福音書22章39節)。

 人の命が奪われる悲しい事件が続いています。長野県の事件、岐阜県の自衛隊の事件等です。人間の命も、動植物の命も、イエス様の父なる神様がお造りになったので、命を奪うことは神様に背く罪です。私たちは、命を大切にする世界を造りたいと願います。

 辛い話で恐縮ですが、今年の9月1日(防災の日)で関東大震災からちょうど100年です。その時、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」というデマが広がり、韓国・朝鮮の人々や中国人が自警団や警官、軍隊に多く殺されたと言われます(数百人説、約6000人説あり)。目撃証言が少なくないのです。日本近代史の大きな汚点です。誤って日本人が殺されたケースもありました。事件現場は東京、千葉、埼玉にあり、その一つ墨田区の京成電鉄押上線・八広駅から徒歩3分の荒川土手(旧四ツ木橋付近)手前に小さな慰霊碑が、2009年に有志により、心をこめて建立されました。周りにつつじ、きんかん、あじさいなどが植えられ、緑豊かです。私は一昨年、見て来ました。東京スカイツリーも近くです。

 慰霊碑には「悼」の文字が彫られています。碑と解説板にこうあります。「犠牲者を追悼し、両民族(日本と朝鮮半島)の和解を願って、この碑を建立する。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う。」横に小さな資料館があり、在日韓国人女性の管理者おられました。「100年前のことを今恨むつもりはない。でも忘れないでほしいし、繰り返さないでほしい」と言われました。当時朝鮮の人々は、炭鉱や工事等での労働のため、学業のために来ていました(場合によって連れて来られた)。1910年から1945年まで、朝鮮半島は日本の植民地でした。二度と繰り返してはいけません。慰霊碑近くでは、9月1日頃に毎年慰霊コンサート等が行われ、今はライブ配信もあります。

 この話をある所でしたところ、北海道出身の80歳ほどの方が、子どものころ地元で多くの中国人が炭鉱労働しており、厳しい環境で次々亡くなったと話されました。2021年3月に名古屋の出入国在留管理局の施設内でスリランカ人女性ウィシュマさんが亡くなったことや、技能実習生の外国人の扱いを見ても、日本が外国人に優しい国になっていないと感じます。東久留米市の外国人人口は2492人(今年6月1日の資料)。外国人に優しい東久留米市、日本をご一緒に作りましょう。アーメン(真実に)。