日本キリスト教団 東久留米教会

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2024-03-30 23:48:36(土)
「主イエス・キリストの復活」 2024年3月31日(日)イースター礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~6,頌栄29、主の祈り,交読詩編119:145~160、讃美歌21・327、聖書 詩編16:7~11(旧約p.846)、ヨハネ福音書20:1~18(新約p.209)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌326、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(詩編16:7~11) わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

(ヨハネ福音書20:1~18) 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


(説教) 皆様、イースターおめでとうございます。説教題は「主イエス・キリストの復活」です。新約聖書は、ヨハネ福音書20:1~18です。本日の最初の小見出しは、「復活する」です。

 1節「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓へ行った。そして墓から石が取り除けてあるのを見た。」本日の主人公は復活されたイエス様ですが、イエス様を除けば、本日の主人公はこのマグダラ出身のマリアとも言えます。シモン・ペトロともう一人の弟子も登場しますが、その男性の弟子二人よりも、このマグダラのマリアが目立っていると感じます。前の日の土曜日は安息日で礼拝に専念する日で、ほとんど出歩くことはできませんから、マリアは安息日が終わり夜に入り、そして日が明ける前に、マリア待ちきれないで、イエス様が納められた墓に駆けつけました。イエス様を愛し、全身全霊で慕っていたからです。ルカによる福音書8章を見ると、マグダラのマリアは、イエス様によって7つの悪霊を追い出していただいた女性だと記されています。肉体か心の、大きな病を癒していただいたと思われます。あるいは売春婦だったが、イエス様によって罪を赦していただいたとも言われます。マグダラのマリアは、ルカによる福音書7章に登場する「罪深い女」ではないかとも言われます。イエス様は彼女について、こう言われました。「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」マグダラのマリアは、確かにこの女性かもしれません。イエス様への感謝と愛に溢れているからです。ですから、夜が明ける前に、イエス様の墓に駆けつけました。本当にひたむきです。何の計算も当てもありません。ただイエス様を慕う熱烈な愛だけがありました。それは、あきらめらえれない愛です。愛はあきらめません。マグダラのマリア、イエス様が十字架で息を引き取るときも、十字架の下にいたのです。イエス様の母マリアとその姉妹、別のマリアさんと共に。それほど彼女の愛は深いのです。

 マリアが、息せき切って墓に着くと、何と墓を塞ぐ大きな石が既に取り除けられていました。父なる神様が取り除けて下さったのです。私は詩編46編6節を思い出します。「夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」イエス様の復活の場面を、聖書は直接描きません。そこは神秘として隠されています。「見ないで信じる者は幸い」というこなのだと思います。夜明けを表す美しい日本語は多くあります。早朝、早天、しののめ、曙、暁、未明、黎明、朝まだき、など豊富です。夜明け、早朝、早天、曙、暁、未明、黎明、朝まだきといった美しい日本語とイエス様の復活が、私の心の中では結びついています。「夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」しののめ、曙、暁にイエス様は、墓を破って復活されました。自力で頑張って甦ったのではなく、正確には父なる神様の愛の力で復活させられたのです。イエス・キリストご自身は、受け身でした。
 
 さて、墓の石が取り除かれているのを見たマリアは、中を見たようです。2節「そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません。』」「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」は、断定はできませんが、このヨハネ福音書を書いたヨハネだと考える人が多いようです。マリアは「イエス様がどこにおかれているのか、分かりません」と言います。「別のお墓に誰かが移動した」と考えているようです。しかしそうではないのです。「イエス様はどこにおらるのか」は、実は重要な問いです。それは「イエス様は一体誰で、どこにおられるのか」という本質的な問いだからです。イエス様は、「神から来て、神に帰る」方です。イエス様は神から来て、神に帰られる神の子です。どこか地上のお墓にずっとおられる方ではありません。イエス様は復活して神のもとに帰られる、最終的には天国がイエス様のおられる場所です。

 そこまでまだ分からないマリア、ペトロ、ヨハネです。3~5節「そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロよりも早く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。」年上のペトロが着くのを待ったのだろうという人もいます。6~8節「続いてシモン・ペトロ持着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」私はここを読むと、イエス様が墓の中で起き上がり、亜麻布を脱ぎ、少し歩いて頭の覆いを取り、そして墓から出て行かれたように感じます。先に墓に着いた弟子は、ペトロの後に墓に入り、見て信じたとあります。墓の中がからであることを確認し、イエス様の復活を信じたのだと思います。

 9節「イエスは必ず死者の中から復活することになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」この必ずという言葉は、原語のギリシア語で「デイ」という短いが重要な言葉です。必然、神の必然を表します。「イエスは死者の中から必然的に復活することになっているという聖書(旧約聖書)の言葉を、二人はまだ理解していなかった。」先に墓に着いた弟子は「見て信じた」とありますが、まだ信じ始めたばかりだったと言えます。旧約聖書にイエス様の復活を予告する御言葉があることを、まだよく理解できていなかったのです。復活のイエス様に教えられ、聖霊なる神様に教えられ、少しずつ目が開かれて、どの旧約聖書の御言葉がイエス様の復活を預言(予言ではなく、神の御言葉を預かって語ること)しているか、この後次第に理解を深めたことでしょう。今は理解が足りないので、二人は家に帰ってしまいます。まだ生き方に変化が起こらないのです。イエス様の復活を預言する旧約聖書の1つは、本日の詩編16編です。その9節以下「私の心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなた(神様)は私(イエス様)の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えて下さいます。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」「からだは安心して憩います」の御言葉が、イエス様の体を伴う復活を指すようです。この詩編16編がイエス様の復活を語っていることは、使徒言行録2章25節以下に明記されているので、間違いないことです。もう一か所、ヨブ記19章25節をも挙げることができるでしょう。ヨブが言います。「私は知っている。私を贖う(救う)方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」「塵の上に立つ」とは「死の上に立つ」ということと思います。つまりこの御言葉は、イエス様の復活を預言していると言えます。二人は、この後それを理解したのではないでしょうか。しかしここでは家に帰ってしまいます。

 しかしイエス様をひたむきに慕うマリアは、諦められず、墓にとどまります。現場にとどまることは大切なのですね。次の小見出しは「イエス、マグダラのマリアに現れる」です。11~13節「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません。』」天使たちが「なぜ泣いているのか」と問うたのは、「もう泣く必要はないのですよ。イエス様は復活なさったのですから」と伝えたかったからです。

 「どこに置かれているのか、私には分かりません」と言いながら、人の気配を感じたのか、後ろを振り向きました。するとイエス様が立っておられるのが見えたのですが、それがイエス様だとは分かりませんでした。涙のために見えなかったという人もいますし、マリアの霊の目(心の目)がまだ開かれていなかったので分からなかったとも思います。なお、「立つ」、「立っている」という言葉は、復活を暗示する場合があります。復活とは、死から立ち上がることだからです。そのイエス様も言われます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか。」マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。私が、あの方を引き取ります。」彼女は、自分の人生は事実上終わったと感じています。これからはイエス様のお墓を守って生きていくことだけを考えていたでしょう。

 そこにイエス様の声が響きます。「マリア。」彼女は驚いて振り向き、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。先生という意味だと書かれています。ラビが先生で、ラボニは「私の先生」の意味です。「マリア」という呼びかけと、「ラボニ」という応答は、イエス様の十字架の前に何度も交わされた対話でしょう。ここだけ「ラボニ」とマリアが語ったとおりのヘブライ語で書かれているので、私たちもその現場の様子を生き生きと感じ取ることができます。「マリア」という心のこもった呼びかけ、「ラボニ」というハートのこもった応答、ここに人格的な生き生きとした交流が生き返っています。打てば響く交流です。この生き生きした交流を復活させて下さったのは、父なる神様です。神の愛は死よりも強いのです。旧約聖書の雅歌8章6、7節を連想します。(聖書協会共同訳)「愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい。愛の炎は熱く燃え盛る炎。大水も愛を消し去ることはできません。洪水もそれを押し流すことはありません。」そしてヨハネ福音書10章3~4節のイエス様の御言葉をも思い出します。「羊飼い(この場合はイエス様)は自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」

 マリアは当然、イエス様にすがりつこうとしました。ところが復活のイエス様がそれをたしなめます。「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」イエス様とマリアのつながりも、新しい段階に達しています。マリアの愛は激しいのですが、人間的な、やや自己中心の愛かもしれません。イエス様にすがりついて、イエス様を自分の影響の範囲にとどめておきたいという無意識の願いがあります。しかしイエス様は、これから天の父なる神様のもとに上らなければなりません。そこから聖霊を注ぐ使命がおありです。そうでないと世界中にクリスチャンを生み出すことができす、世界中に教会を生み出すことができません。

 イエス様はマリアに、イエス様の復活をまだ知らない弟子たち、復活を一応信じたけれども、これからのことを理解できないでいる弟子たちのもとに言って、メッセージを伝える使命を与えます。「私の兄弟たちの所へ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなた方の父である方、また私の神であり、あなた方の神である方のところへ私は上る』と。」復活されたイエス様は、その後天に昇られ、今もそこで生きておられ、天から私たちに聖霊を注いで下さいます。

 イエス様は「私の兄弟たちの所へ行きなさい」と言われました。イエス様の十字架の時に十字架の下にいた「愛する弟子」(おそらくヨハネ)以外の男の弟子たちは、皆逃げ去りました。その彼らを兄弟と呼んで、受け入れておられることが分かります。「なぜ私を置いて逃げたか」と責めておられません。「あなたたちは私の兄弟だ」と受け入れておられます。彼らは神の家族なのです。マグダラのマリアも、イエス様の霊的な妹になります。教会も神の家族です。父なる神様が父、神の独り子イエス様が長男、私たちは皆、イエス様の霊的な妹たち、弟たちになります。復活のイエス様が私たちを「私の愛する弟たち、妹たち」と呼んで、一人一人の名前を呼んで下さいます。私たちはイエス様に対して、「私のお兄さん」と呼んでもよいし、マリアに倣って「ラボニ」と呼んでもよいでしょう。マリアはイエス様の言葉に従い、弟子たちの所へ行って、「私は主を見ました」と告げ、イエス様が父なる神様のもとに上られると伝えたはずです。「私は主を見ました。復活されたイエス様を見ました。」私たちは、マリアの言葉を信じて、イエス様が復活して今も生きていることを信じるのです。

 礼拝はまさに、復活のイエス・キリスト出会い、イエス・キリストと交流する場です。オンライン参加でも同じです。私たちは聖書を通してイエス様に出会い、聖餐式によってイエス様と交流します。ペトロの手紙(一)1章の御言葉を思い出します。3~4節「神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、使者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなた方のために天に蓄えられている朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者として下さいました。」8節「あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

 それにしても、やはりマグダラのマリアの一途でひたむきな信仰、イエス様への愛はすばらしいと思います。聖書では、教会はキリストの妻、花嫁です。キリストが夫で花婿、教会がキリストの妻、花嫁です。マグダラのマリアは、まさにキリストの霊的な花嫁として、イエス様に全身全霊の清い愛を献げています。霊的な夫であるイエス様もマリアを清い愛で愛して、マリアの罪のためにも十字架で死んで下さいました。カトリック教会のシスターは独身ですが、イエス様と霊的に結婚して、イエス様に愛と全人生を献げているのだと聞きます。プロテスタントでも、基本的には同じと思います。教会は(私たちは)キリストを愛するので、日曜日ごとに喜んで集って、イエス・キリストを愛する礼拝を献げます。他のものを礼拝しないのです。エレミヤ書2章で神様が、神の民イスラエルに、「私はあなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」と言っておられます。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(二)11章で、コリントの教会の人々に書きます。「私はあなた方を純潔な処女として、一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。あなた方の思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」私たちに、キリストに献げられた花嫁です。マグダラのマリアこそ、私たちの模範となるキリストの花嫁だと感じます。私たちも彼女のように、イエス様を愛して参りましょう。アーメン。

2024-03-17 3:02:53()
説教「この人を見よ」 2024年3月17日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第68回)受難節第5主日
順序:招詞 エフェソ1:4~6,頌栄24、主の祈り,交読詩編なし、讃美歌21・297、聖書 イザヤ書53:7~19(旧約p.1150)、ヨハネ福音書19:1~16a(新約p.206)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌306、献金、頌栄27、祝祷。 

(イザヤ書53:7~10) 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

(ヨハネ福音書19:1~16a) そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

(説教) 本日は、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第68回)、受難節(レント)5主日公同礼拝、説教題は「この人を見よ」です。です。新約聖書は、ヨハネ福音書19:1~16です。小見出しは、この少し前から「死刑に判決を受ける」です。私たちは、二週間後にイースターを迎えます。

 総督ピラトは、イエス様を尋問した上でユダヤ人たち(イスラエルの信仰の指導者たち)に、「私はあの男に何の罪も見出せない」と告げました。ピラトの本心です。そして「過越祭には誰か一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。ユダヤ人たちの一部が、ピラトが誰か一人を釈放すると言うかもしれないと予測し、予め「バラバを」と答えようと決めていたのかもしれません。一人が「バラバを」叫ぶと、皆が群衆心理に巻き込まれて「そうだ、そうだ。バラバを釈放せよ」と一つになって大声で叫んだのかもしれません。皆で悪魔に従っている感じです。私たちも気をつける必要があります、集団の考えに巻き込まれるではなく、自分でよく祈り、神様に助けていただいて自分でよく考え、自分で責任をもって判断する必要があります。

 ユダヤ人たちの圧力を受けたピラトは、1節によると、イエス様を捕らえ、鞭で打たせました。2~3節「兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、平手で打った。」冠と紫の服。王様のシンボルです。しかし茨の冠ですから、イエス様を馬鹿にしていることは確かです。紫は高貴な色です。日本でもそうです。紫の服を、カトリックのフランシスコ会訳聖書では、「深紅のマント」と訳しています。ローマ軍の兵士たちがイエス様を馬鹿にして「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打ちました。イエス様は少し前に大祭司の前で下役の一人に、平手で打たれました。ふつうの人はカッとなるものですが、イエス様は忍耐強くて、一切仕返し、復讐、報復をなさいません。イエス様の十字架を予告する御言葉としてイザヤ書53章が有名ですが、その少し前の50章にも「主の僕の忍耐」という小見出しの個所があり、神様に従う僕が迫害に耐えて、復讐しない姿が示されています。イザヤ書50章5~6節「主なる神は私の耳を開かれた。私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には頬を任せた。打とうとする者には背中を任せ、ひげを抜こうとする者には頬を任せた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けて下さるから、私はそれを嘲りとは思わない。私は顔を硬い石のようにする。」平手で打たれたとは書かれていませんが、不当な暴行を忍耐する神様の僕の姿が、イエス様と重なります。

 ピラトはまだイエス様を釈放しようと努力します。4~5節「ピラトはまた出て来た言った。『見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、私彼に何の罪も見出せないわわけが分かるだろう。』イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ』と言った。」ピラトは、鞭打たれ、茨の冠を被ったイエス様の姿を見せて、「こんな無力な男にあなたたちをリードして、ローマに反乱を起こす力などない。十字架刑に処する必要も理由も全くない。だからイエスを釈放することに同意しなさい」とユダヤ人たちを説得する意図があったと思います。しかしユダヤ人たちは、ピラトに従いません。6節「祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、『十字架につけろ、十字架につけろ』と叫んだ。ピラトは言った。『あなたたちが引き取って十字架につけるがよい。私はこの男に罪を見出せない。』」

 ピラトが5節で言った「見よ、この男だ」という言い方は、有名になりました。
直訳では「見よ、この人だ」です。どうしても讃美歌21の280番を連想しますね。歌いたいと思いますが、ライブ配信してよい讃美歌のリストに含まれていないので、歌いません。1節の歌詞はこうです。「馬槽(まぶね)の中に、うぶごえあげ、木工(たくみ)の家に、人となりて、貧しき憂い、生くる悩み、つぶさになめし、この人を見よ。」4節の歌詞はこうです。「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は、あらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる活ける神なれ。アーメン。」由木康牧師という著名な牧師の作詞です。「見よ、この男だ」の言葉は、このヨハネ福音書1章29節の、洗礼者ヨハネの言葉を思い出させます。洗礼者ヨハネは、イエス様のお姿を見てこう言ったのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。ピラトが「見よ、この人を」と言って示されたイエス・キリストは、洗礼者ヨハネがまさに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と指し示したその方なのです。

 イエス様の十字架刑を何とか回避させようとするピラトに、ユダヤ人たちがさらに圧力をかけます。7節「ユダヤ人たちは答えた。『私たちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。これはヨハネ福音書5章でのイエス様の言葉を指して言っています。イエス様は、38年間病気であった男性を癒したあとで、こう言われました。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」ここでイエス様は、神様を父と呼ばれました。神様がイエス様の父であれば、イエス様は父なる神様の子であり、神に等しい方、神様ご自身ということになります。それは事実なので、そのまま受け入れることが必要です。しかしユダヤ人たちの信仰は、神は唯一との信仰で、神の子という存在はあり得ないと信じていたのでしょう。イエス様が神の子を名乗ったことは、神様への甚だしい冒瀆と感じられ、冒瀆の罪を犯した者は死刑になるのが当然と信じていたででょう。私たちクリスチャンももちろん唯一の神を信じてやまない者ですが、唯一の神は、父・子・聖霊なる三位一体の神様なのです。一体ですから唯一です。

 8~9節「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、『お前はどこから来たのか』とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。」ピラトはいつから恐れを感じ始めたのでしょうか。はっきり分かりませんが、先週の個所でイエス様が、「私の国はこの世には属していない。~私は真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た」と言われたころから、イエス様の罪のなさ、清らかさを感じ、イエス様への恐れを感じ始めたのではないかと思います。そしてピラトは、ユダヤ人たちから、イエス様が神の子と自称したと聞いて、ますますイエス様を只者ではない清さを感じ、ますます恐れを抱いたのではないかと感じます。ピラトはイエス様に、「お前はどこから来たのか」と問いますが、イエス様は沈黙されます。この沈黙は、イザヤ書53章の成就・実現と思います。イザヤ書53章は、イエス様の十字架の犠牲の死を予告した、クリスチャンがよく知っている御言葉です。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに。」「彼は不法を働かなかった」、罪を犯さなかったと明記されています。

 ピラトは尋ねました。「お前はどこから来たのか。」イエス様は天から来られた、神の国から来られました。私たちの住む世界とは次元の異なる所、天から来られました。ピラトに言っても理解されないと思って、イエス様はピラトに答えようとされなかったのかもしれません。そこでピラトは言います。10~11節「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」するとイエス様が沈黙を破って言われます。「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」ピラトは脅しをかけたのです。「お前を釈放する権限も、十字架にかける権限も、この私にある。私を無視して従わないなら、十字架につけるぞ。」しかしイエス様は、ピラトの脅しに全く屈せず、驚くほど雄々しく堂々と「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ」とお答えになったのです。鞭打たれた人は普通、息も絶え絶えになると言います。当然です。イエス様も息絶え絶えだったでしょうが、神の子としての威厳に満ちておられます。

 ここで権限が問題になっています。確かにピラトには、ローマから派遣された総督して、イエス様を十字架にかける権限を持っていました。しかし、神様からご覧になれば、それは職権乱用です。ローマ皇帝もピラトも、今の時代の各国の大統領や首相も、私たち一人一人も皆、神様の御心に従うことが必要です。神様が最高の権威者です。神様がこの宇宙の真の王です。ですから、神様に逆らう地上の権威者・権力者は必ず滅びます。アッシリアもバビロンも、ローマ帝国も、ヒットラーも豊臣秀吉も皆、栄耀栄華を誇りましたが、滅びました。

 ピラト以外にも、世の中には色々な権限をもつ人々がおられます。私たち一人一人も、自分の人生のことは、ある程度は自分で決める権限と自由があると思っています。しかし私たちに与えられている本当の権限と自由は、神様の御心に喜んで従う権限と自由です。神様の御心に背いて罪を犯す権限と自由は与えられていません。私たちが権限と自由を、神様の御心に背く形で用いるならば、神様からご覧になれば権利の乱用の罪になるでしょう。ピラトは、イエス様を釈放する権限も、十字架につける権限も自分にあると豪語しています。そうではありません。ピラトに、父なる神様の御心に逆らってイエス様を殺す権限は与えられていません。彼がイエス様を十字架につけるように命令すれば、それは神様に背くことであり、権限の乱用の罪です。確かにイエス様が私たち皆の罪を背負って十字架で死なれることは、神様の御計画ですが、全く罪のないイエス様を十字架で殺すこと自体は、巨大な罪であることは明らかです。私たちも少しずつ罪を犯しているとき、私たちは自由を乱用していることになります。私たちに与えられている権限と自由を、神様の御心に適うように用いたい、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛するために用いたいと、心より願います。

 イエス様は言われます。「だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」それはユダヤ人の信仰の指導者たちのことでしょう。神様を一番愛しているはずの信仰の指導者たちが、神の子イエス様を拒否して死に追いやる。本来あり得ないことです。しかしそうなってしまう。イエス様は深い悲しみを込めて、こう言われました。私たちもイエス様の御言葉を拒否するとき、イエス様を悲しませています。

 イエス様の無実を確信しているピラトは、釈放しようと努めます。しかしユダヤ人たちがピラトを脅すのです。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」イエスはローマ皇帝への反逆者だ(実際には違います)。そのイエスを釈放すれば、ピラトよ、あなたが皇帝への反逆者になる。「ローマ皇帝にそう訴えるぞ」と言わんばかりです。ユダヤ人たちはピラトの弱みを握っていました。ピラトにとって、ローマ皇帝は恐ろしい存在でした。ピラトは脅しに負けてゆきます。

 13~14節「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち敷石という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ころであった。」マルコ福音書には、イエス様が十字架につけられたのは午前9時ころと書かれていて、ヨハネ福音書と一致しxcv正午ごろであった。」それなら十字架刑の開始はさらに後になります。少なくともイエス様の十字架の時刻の歴史的正確さでは、マルコ福音書の方が正確なのだと思います。ヨハネ福音書は時刻を一致させることよりも、メッセージを重視しているのです。すなわち、過越祭の準備の日の正午ごろは、エルサレムの神殿で過越しの小羊の屠って殺すことが始まった時刻であるそうです。ヨハネ福音書はここで、これから十字架の架けられるイエス・キリストこそ、真の過越祭の小羊だと、私たちに訴えているのです。洗礼者ヨハネがイエス様を見て語ったあのメッセージが、いよいよ私たちの心に響き渡ります。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 旧約聖書のイスラエルの民がエジプトを脱出した時、神様はイスラエルの民のリーダー、モーセとアロンに言われました。「今月の十日、人はそれぞれの父の家ごとに小羊を一匹用意しなければならない。~その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。~それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入口の日本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。~これが主の過越しである。その夜、私はエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。またエジプトの全ての神々に裁きを行う。私は主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、私はあなたたちを過ぎ越す。」その通りになりました。小羊の血が塗られたイスラエルの民の家の上は、神様の裁きが過越して行き、救われました。ヨハネ福音書は、十字架で私たち皆の罪を身代わりに引き受けて死んで下さるイエス・キリストこそが、真の過越の小羊だという強力なメッセージを、私たちに向かって発信しています。

 「ピラトがユダヤ人たちに、『見よ、あなたたちの王だ』と言うと、彼らは叫んだ。『殺せ。殺せ。十字架につけろ。』ピラトが、『あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか』と言うと、祭司長たちは、『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』と答えた。」「私たちには皇帝(ローマ皇帝)のほかに王はありません」とは、ユダヤ人の心にもない言葉です。ユダヤ人なら「真の神以外に王はありません」が本心です。しかし彼らはイエス様を十字架につけるためなら、このような嘘を言うことすらためらっていません。遂にピラトは圧力に負けて、イエス様を十字架にかけることに同意してしまうのです。

 しかしイエス・キリストはこの後、雄々しく十字架を背負って下さいます。そして「成し遂げられた」、すべての人の罪を身代わりに背負いきる使命が達成されたと述べて、勝利のうちに息を引き取られます。さらに三日目に復活して死に勝利して下さいます。このイエス・キリストと共に、地上の人生の最後まで共に歩み、天国に入れていただきましょう。アーメン。

2024-03-10 2:14:40()
説教「キリストこそ真理、真の王」  2024年3月10日(日)受難節第4主日公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~6,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編119:113~128、讃美歌21・300、聖書 ダニエル書5:21~24(旧約p.1389)、ヨハネ福音書18:28~40(新約p.205)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌311、献金、頌栄27、祝祷。 

(ダニエル書5:21~24) 父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草を食らい、天から降る露にその身をぬらし、ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。

(ヨハネ福音書18:28~40) 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

(説教) 本日は、受難節(レント)第4主日公同礼拝、説教題は「キリストこそ真理、真の王」です。です。新約聖書は、ヨハネ福音書18:28~40です。最初の小見出しは、「ピラトから尋問される」です。

 前回はペトロがイエス様を三度知らないと言ってしまい、イエス様の予告通り鶏が鳴いた場面まででした。本日の最初の28節「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。」ローマから派遣された総督ピラトは、普段は地中海沿岸のカイサリアに駐在していましたが、ユダヤ人の過越祭の時期にはエルサレムに来ていました。過越祭の時期は、ユダヤ人の民族意識と愛国心が高まって非常に盛り上がる時期だったので、ローマへの反乱が起きないように見張るためにエルサレムに来て、滞在していました。神殿のそばにあったアントニオ城にいたのではないかと言われます。そこが総督官邸と呼ばれたのでしょう。

 エルサレムの信仰指導者たちは、イエス様を総督官邸に連行しながらも、自分たちは官邸に入りませんでした。ピラトが外国人なので、外国人の住まいに入ると汚れると信じていたからです。それが当時のイスラエル人の考えでした。愛国心、選民意識、エリート意識が強すぎるとこうなるのかと思います。差別を生んでしまいます。日本でも、江戸時代末期には、外国人は汚れているので日本から追い払えという攘夷運動が燃え盛り、太平洋戦争中は鬼畜米英と呼んだり、朝鮮半島出身者や中国出身者を差別する意識もあったと思います。イエス様の弟子ペトロもユダヤ人なので、外国人と交際してはいけないと考えていましたが、使徒言行録10章28節を見ると、「神は私に、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」と言って、外国人を汚れていると見なす考えを変えたと言っています。

 イエス様を連行した人々は外国人ピラトを汚れていると見ていましたが、その実、自分たちではイエス様に手を下さず、ピラトを利用してイエス様を殺そうとしています。29~30節「そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、『どういう罪でこの男を訴えるのか』と言った。彼らは答えて、『この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう』と言った。」エルサレムの信仰の指導者たちがイエス様をピラトのもとに連行したのは、イエス様がユダヤ人の王を名乗るローマにとって政治的に危険な人物であると思わせ、死刑にしてもらうためです。31~32節「ピラトが、『あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け』と言うと、ユダヤ人たちは、『私たちには、人を死刑にする権限がありません』と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」使徒言行録7章のクリスチャン・ステファノの殉教の場面を見ると、ユダヤ人にも人を石打ちで殺す権限は認められていたと思えますが、ローマ人が政治犯を死刑にする十字架で人と死刑に処する権限はユダヤ人になかったのでしょう。とにかくエルサレムの信仰の指導者たちは、イエス様を何としても死刑にしたいのです。

 イエス様の死刑はどうしても十字架でなければなりませんでした。「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われたことが実現するためであった。」イエス様は12 章でおっしゃっています。「私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」その後にこう書かれています。「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」それは十字架の死なのです。十字架に上げられることで地上から上げられ、そして最終的に天に上げられる。」天に上げられることは栄光です。そのプロセスで十字架に上げられることも栄光なのです。十字架に上げられて、すべての人を御自分のもとに引き寄せる、それはすべての人に御自分のもとに来て救われるように招く、招待するということと思います。

 本日の33~34節、ピラトとイエス様の問答です。「そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、『お前がユダヤ人の王なのか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのですか。』」 「ピラトよ、あなたは私がユダヤ人の王かどうか、真剣に関心があるのか。それとも自分にとってどうでもよいことだが、ユダヤ人たちが『イエスを裁け』とうるさく言うから、仕方なく事務的に対応しているだけなのか。」これがイエス様の問いだと思います。ピラトの本心は後者です。ピラトは言い返します。「私はユダヤ人なのか。」「私はユダヤ人でないから、イエスよ、あなたがユダヤ人の王かどうか、私には全く関係ないこと、私にとってどうでもよいことだ。」「しかしイエスよ、あなたが本当にユダヤ人の王を名乗ってローマへの反乱を扇動するなら、私はローマから派遣されているユダヤ政治の責任者として、あなたを処分しなければならない。」「お前の同胞のユダヤ人や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」

 イエス様はお答えになります。36節。大切な御言葉です。この御言葉は、他の3つの福音書には記されていません。ヨハネ福音書だけに記されています。「私の国はこの世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない。」イエス様の国は神の国であって、この世の中の政治的な国とは違います。イエス様は確かに王ですが、この社会の政治的な権力者としての王ではなく、神の国の真の王です。全てのこの世の政治的な権力者もひれ伏すべき、宇宙の真の王、真理の王です。この王は、この世の王と武力で戦争はしません。この世の政治や権力を超越した究極の王です。父なる神様がその究極の王とも言えますが、その父なる神様の独り子イエス・キリストもまた、宇宙の真の王、真理の王、究極の王です。

 神が真の王だということは、旧約聖書のダニエル書にも明記されています。ユダヤ人ダニエルが、バビロン捕囚でバビロンに行き、バビロン帝国の王に仕えていたときのことです。神様が夢によってバビロン帝国のネブカドネツァル王に教えられます。「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり(つまり神が世界の真の王)、この神は御旨のままにそれを誰にでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできるということを、人間に知らせるためである。」しかしネブカドネツァル王が非常に傲慢だったため、神様の御声が響きます。「お前に告げる。王国はお前を離れた。お前は人間の社会から追放されて、野の獣と共に住み、牛のように草を食らい、七つの時を過ごすのだ。そうしてお前はついに、いと高き神こそが人間の王国を支配する者で、神は御旨のままにそれを誰にでも与えるのだということを悟るであろう。」このことは、直ちにネブカドネツァル王の身に起こります。その時が過ぎるとネブカドネツァル王は天を仰ぎ、理性が戻り、何と、いと高き神をほめたたえるようになりました。「その支配(神の支配)は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて、何をするのかと言いうる者は誰もいない。」
 
 その息子のベルシャツァル王の時代にも、ダニエルはバビロンで仕えていました。ベルシャツァル王も非常に傲慢だったので、ダニエルが告げます。「父王様は傲慢になり、頑なに尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草をくらい、天から降る露にその身を濡らし、ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なおへりくだろうとはなさらなかった。天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命を行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」それで神のメッセージがあなたに与えられたと語ります。「神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられた。あなたは秤にかけられ、不足と見られた。あなたの王国は二分され、メディアとペルシアに与えられる。」その夜、ベルシャツァルは殺されたのです。

 ヨハネ福音書に戻ります。「私の国は、この世には属していない」と言われたイエス様の言葉を聞いてピラトは、「それでは、やはり王なのか」と言います。イエス様が「私の国」と言われるので、自分の国があるならやはり王なのだな、と言ったのです。ピラトにはイエス様の言葉が理解できません。ピラトは政治的な王しか思いつかないのです。イエス様は言われます。「私が王だとは、あなたが言っていることです。分かりにくい言葉ですが、「ピラトよ、あなたはあくまでも私が政治的な王としか考えられないのだね」と意味だと思います。ピラトには、イエス様がこの世の政治的な王とは次元の異なる王だということが理解できず、イエス様とピラトの対話はかみ合いません。イエス様は言われます。「私は真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。」イエス様が真理という言葉を用いたため、ピラトは言います。「真理とは何か。」「真理とは何か」という問いは、深く考える人にとっては非常に重要な問いです。宗教や哲学に関わる領域です。でもピラトは、そこまで深い探求心で「真理とは何か」と述べたのではなさそうです。

 イエス様が、「私は真理について証しするために生まれ、そのために世に来た」と言われたので、戸惑って「真理とは何か」と言った程度と思います。しかしイエス様は、ローマ帝国を脅かすような政治的な王ではないことは分かったのだと思います。イエス様にしてみれば、ピラトにも、心を低くして真理そのものであるイエス様を受け入れてほしい、と願っておられたと思います。「真理に属する人は皆、私の声を聞く」と言われたイエス様は、ピラトにもイエス様の声を、深く受け入れてほしいと願っておられたでしょう。イエス様はこの福音書の10章で、「私は羊のために命を捨てる。私にはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われました。ほかの羊であるピラトをも、何とか永遠の命へと導きたいと願っておられたと思います。しかし、残念ながらピラトの心には、イエス様の深い御心が届きません。ここでイエス様は権力者ピラトを恐れず、ご自分のことを証しされ、所信を堂々と語られました。「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」イエス様は14章で既に語っておられました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」イエス様の証しについて、テモテへの手紙(一)6章13節は、こう述べます。「ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエス。」まさにその通りです。

 次の小見出しは、「死刑の判決を受ける」です。「ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。」ピラトはイエス様とユダヤ人たちとの間を何度も行ったり来たりしています。「私はあの男に何の罪も見出せない。」あの男にはローマへの反乱を唆す罪は全くないし、死刑になるような殺人などの犯罪を犯した事実も全くない。無実だ。「ところで、過越祭には誰か一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」ピラトはイエス様の無実を確信しているのですから、こんなことを言わず、総督の権限で直ちに釈放すべきなのですが、ここにピラトの気の弱さが現れています。ピラトば、ユダヤ人たちが「分かった。イエスを釈放してほしい」と言うのを期待したのでしょう。ユダヤ人たちに下駄を預けたのは、裏目に出ました。ピラトの弱気を見抜いた人々は、ここぞと圧力をかけます。「その男ではない。バラバを」と大声で言い返します。ピラトは大声に負けてゆきます。大声が間違っていることもあります。バラバは強盗であったと書かれています。単純な強盗ではなく、愛国心によって反ローマ活動を行った者ではないかと言われます。ユダヤ人に人気があったのでしょう。

 本日の場面は、イエス様が問いただされている場面です。問いただされればされるほど、イエス様が無実の方、真理の方であることが、ますます明らかになります。にもかかわらず、ピラトもエルサレムの信仰指導者たちも、生ける真理であるイエス様を抹殺する方向に、どんどん進みます。ユダヤ人たちとありますが、この人々は、私たち人間の罪深さを象徴する存在として登場しています。ユダヤ人たちがイエス様を死に追いやったので、ヨーロッパではユダヤ人が悪いということになり、反ユダヤ主義が力をもちました。それは大きな間違いです。ここに登場するユダヤ人たちは、私たち人間全体の自己中心の罪深さを象徴する者として登場しています。キリスト教会の歴史にも、罪と失敗があります。その1つはガリレイ裁判です。カトリック教会は、地動説に賛成する学者ガリレオ・ガリレイに、1633年に有罪を宣告しました。1992年に、今から2代前のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、17世紀のカトリック教会の過ちを認めて、謝罪しました。人間は過ちを犯しやすい者です。私たちが、何が真理で真実であるか、神様から知恵をいただいて、狂いのない眼で真理を見定めることができるように努力し、祈って参りましょう。アーメン。

2024-03-03 1:14:44()
説教「イエス・キリストと弟子ペトロ」  2024年3月3日(日)受難節第3主日公同礼拝
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編119:97~112、使徒信条、讃美歌21・299、聖書 箴言20:22(旧約p.1017)、ヨハネ福音書18:15~27(新約p.204)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌303、献金、頌栄92、祝祷。 

(箴言20:22) 悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。

(ヨハネ福音書18:15~27) シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

(説教) 本日は、受難節(レント)第3主日公同礼拝、説教題は「イエス・キリストと弟子ペトロ」です。です。新約聖書は、ヨハネ福音書18:15~27です。最初の小見出しは、「ペトロ、イエスを知らないと言う」です。

 イエス様は十字架向かう決心を固めておられるのです。一番弟子のペトロが、イエス様を捕えにきた大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落としたときです。イエス様は「剣をさやに納めなさい。父(父なる神様)がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」苦き杯を飲み干す、十字架にかかる決意が固いのです。イエス様は進んで捕えられました。一隊の兵士がおりました。一隊は少なく見ても約200名とのことです。イエス様はまず大祭司カイアファのしゅうと、アンナスの所へ連行されました。現役の大祭司よりしゅうとの方が力をもっていたのでしょう。

 そして最初の15節「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中に入ったが、」とあります。「もう一人の弟子」はよく、このヨハネ福音書を書いたヨハネ自身だろうと言われますが、明確にヨハネとは書いていないので断定はできません。この弟子は大祭司の知り合いだったのですね。それで大祭司の屋敷の中庭に入ることができました。一方、ペトロは門の外に立っていました。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中へ入れた。」周りに何人くらい人がいたのか分かりませんが、夜中のことで暗かったはずです。ペトロにしてみれば、人々の中に紛れ込んで隠れることができると思って、屋敷の中庭に入ったと思います。門番の女性は、ペトロを中に入れたとき、ペトロの顔を見て、見覚えがあると感じたのでしょう。門番の女性は、大祭司の屋敷側の人間です。やや大げさに言えば、権力側です。彼女が言いました。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは驚愕したに違いありません。思わず「違う」と答えてしまいました。最初は、イエス様を裏切ったという自覚もなかったのでしょう。

 しかしここで、数時間前のイエス様の予告が実現してしまいました。イエス様が弟子たちの足を洗った後で言われたのです。「私の行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言いました。「主よ、なぜ今ついていけないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエス様は言われました。「私のために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう。」イエス様は、天地創造をなさった神様なので、ペトロの全てをペトロよりも深くご存じ、これから起こることも全部ご存じでした。そしてイエス様はこの時、ペトロのために執り成しの祈りを祈っておられたのです。ルカによる福音書22章によると、イエス様はこのときペトロに、こうも言われたのです。「シモン、シモン、サタンはあなた方を小麦のようにふるいにかけるこを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様は、ペトロのためにこのように予め執り成しの祈りをなさいました。それでペトロは裏切りを悔い改めて立ち直ることができました。しかしイエス様が「あなたのために祈った」と言われたときは、ペトロはなぜそんなことをおっしゃるのか、理解できませんでした。あとあとになってやっと、イエス様の執り成しの愛が、自分に予め与えられていたことに思い至り、先行する(先に存在していた)イエス様の支えの愛に感謝したに違いありません。

 さてペトロは門番の女性に「あなたもあの人の弟子の一人ではありませんか」と突然急所を突かれて動転し、「違う」と言ってしまいました。保身のために知らんぷりすることしか思いつきませんでした。彼は正々堂々と「私はそうである」と言えばよかったのに、それをせず、人々の中に紛れ込んで隠れようとします。「僕や下役たちは、寒かったので炭火を起こし、そこに立って火に当たっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。」イエス様の十字架は、ユダヤ人の過越しの祭りの時期ですから、ちょうど今頃の季節です。夜中は寒く、外で過ごすには火を焚くことが必要でした。

 この正反対に、正々堂々と振る舞い、全く逃げ隠れしない方がイエス様です。次の小見出し「大祭司、イエスを尋問する」に進みます。19節「大祭司は(実際には大祭司カイアファのしゅうとアンナス)はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。」アンナスは、イエス様がユダヤ社会で反体制運動を始めるつもりではないかと疑っているようです。20節「イエスは答えられた。『私は、世に向かって公然と話した。私はいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。』」その通りで、現にヨハネ福音書7章でエルサレムのある人々が次のように言っています。「これ(イエス様)は、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシア(救い主)だということを、本当に認めたのではなかろうか。」そう言われるほど、イエス様は公然と教えられたのです。ですからだ大祭司の前で言われるのです。「ひそかに話したことは何もない。なぜ、私を尋問するのか。私が何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々が私の話したことを知っている。」イエス様は、全く悪びれずに、堂々と語られます。

 22~23節「イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、『大祭司に向かって、そんな返事の仕方があるか』と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。『何か悪いことを私が言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜ私を打つのか。』」この発言が全く正当だったので、平手で打った下役も全く言い返すことができず、黙ってしまいました。」ここで明らかになっていることは、イエス様が完全に無実であることです。アンナスは、イエス様を有罪にする理由を何一つ見つけることができず、イエス様を義理の息子、現役の大祭司カイアファの元に送りました。

 イエス様はいつも公然と話されました。ユダヤ人たちだけではなく、世界に向かって真理を語られたのです。私たち教会もそうです。説教者は公然と語り、世界に向かってオープンに語ります。週報に本日の礼拝は、「受難節(レント)第3主日公同礼拝」と書いてあります。公同の礼拝とは、公の礼拝です。プライベートな礼拝ではありません。どなたが参加しても構わない公の礼拝です。説教もプライベートにではなく、公に語る説教です。教会は秘密結社ではありません。その教えは、特定の人々の中の秘密の教えではありません。キリストの福音は、全世界の全ての人に宣べ伝えられなければなりません。完全にオープンです。説教題も教会の外に看板に書いて、世界に向かって公に告知しているのです。マタイ福音書5章でイエス様が言われました。「山の上にある町は、隠れることができない。」教会も隠れることができません。迫害の時代で隠れざるを得ないこともありますが、原則は公に堂々と礼拝を守ります。私たちの信仰告白もそうです。ローマの信徒への手紙10章9~10節に、こう書かれています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」信仰告白を口で公に言い表すことが必要です。ですから洗礼式の時に、3つの問いに口に出して公に答えていただき、そして洗礼を受けていただく流れになります。そして毎週の礼拝での使徒信条や日本基督教団信仰告白も、声に出して公に告白することが大切です。

 イエス様が大祭司に向かってあまりにも堂々と述べたので、下役の一人が「大祭司に向かって、そんな返事の仕方があるか」と言って、イエス様をヒ平手で打ちました。イエス様は少しもひるまず、堂々と抗議されました。しかし、縛られていたせいもありますが、イエス様は復讐して打ち返すことはなさいません。口で抗議なさっただけです。箴言20章22節(本日の旧約聖書)を思い出してもよいようです。「悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みを置け、主があなたを救って下さる。」イエス様も、平手打ちの悪に復讐せず、父なる神様の裁きにお委ねになりました。父なる神様は、十字架の後に、復活によってイエス様に報いて下さいました。

 さて、弟子のペトロです。、イエス様が大祭司の尋問に堂々と答え、ご自分の真理を貫いたのに対し、ペトロにはそれができませんでした。3つめの小見出しは、「ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う」です。25節以下です。「シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が『お前もあの男の弟子の一人ではないのか』と言うと、ペトロは打ち消して、『違う』と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた身内の者が言った。『園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか。』ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。」

 先々週の説教で、イエス様はよく「エゴー・エイミー」とおっしゃったと申し上げました。これは「私は〇〇である」の意味です。「私は命のパンである。」「私は世の光である。」「私は命のパンである。」「私はこうだ」という意味です。ペトロは今日の箇所で2回「違う」と言っています。元の文から直訳すると2回とも「私はそうではない」、「私はそうではない」という言い方です。つまりイエス様と正反対の言い方です。イエス様が堂々と「私はこうだ、私はそうだ」とはっきり肯定しておられるのに対してペトロは、その正反対「私はそうではない」、「私はそうではない」と、明確に否定しています。ヨハネ福音書は二人を対比していると言えます。ペトロは、「違う」「違う」と真実でないことを言いながらも、自分がイエス様を裏切っていることに気づいていませんでした。神様が気づきを与えて下さいます。「ペトロは再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。」ペトロは、わずか数時間前のイエス様の予告を思い出したに違いありません。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう。」その通りになったのです。

 他の3つの福音書は、イエス様を裏切る罪を犯したことに気づいたペトロが、泣いたことを記しています。これはペトロの純真なところです。裏切りの罪を犯したことは事実ですが、ペトロは心から罪を悔い改めたのでした。この悔い改めは、父なる神様の御心に適ったに違いありません。ここではコリントの信徒への手紙(二)7章を引用するのが適切でしょう。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ…。」イエス様も、本心から悔い改めたペトロの罪を、赦して下さったに違いありません。ヘブライ人への手紙4章15節に、こう書いてあるからです。「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。」

 それにしても、鶏が鳴いた出来事は印象的です。鶏は早朝に泣いて、人間たちを目覚めさせます。この時、鶏の鳴き声で自分の罪に気づいたペトロが後に書いたペトロの手紙(一)5章8節以下にこうあります。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなた方と信仰を同じくする兄弟も、この世で同じ苦しみに遭っているのです。」先々週、日本基督教団の教育委員会の務めで、横浜市の蒔田教会に伺い、教会学校教育について古谷正仁牧師の講演を伺って、学びました。蒔田教会の礼拝堂を外から見ると、屋根に十字架と共に、鶏のシンボルマークが設置されていました。教会に行く度に、この鶏マークが目に入ります。それは「目を覚ましていなさい」との無言のメッセージです。教会に来る人は、毎回自分に問いかけることになります。「私は今、ペトロのようにイエス様を裏切っていないだろうか? イエス様に日々従って生きているだろうか? 信仰的に目を覚ましているだろうか?」

 私の手元にブルーダーという人が書いた『嵐の中の教会』という本があります。副題は「ヒトラーと戦った教会の物語」です。ヒットラーに率いられたナチスはユダヤ人を大勢殺し、ユダヤ人が大事にする旧約聖書を嫌い、キリスト教会においても旧約聖書を捨て去ることを求めるなど、キリスト教会を骨抜きにしようとしました。それに抵抗するため、牧師緊急同盟が結成され、告白教会運動という教会運動が展開されました。今こそ目を覚ましてイエス・キリストに従わなければならない。その時代の小さな村の教会の抵抗を物語風に記したのがこの『嵐の中の教会』という本です。ドイツ人の優秀さが強調され、ユダヤ人が迫害され、障がいをもつ人々にも安楽死が強制されることもありました。ナチスが賛美され、ヒットラーこそすばらしい指導者と賛美される時代の中で、教会は惑わされないでひたすら目を覚まし、ヒットラーではなく、イエス・キリストにのみ従わなければならない。

 この本に登場する牧師が、聖餐式を司式する時に語っています。「聖餐式によって生まれる共同体は、国民共同体(ナチスが力をもつドイツ国家)よりもはるかに深いものがあります。キリストの体なる教会、つまり信ずる者の群れは、いかなる国籍、いかなる民族に属する人間をもすべて包括するからであります。」「私たちは、一人のい方(キリスト)の死を通して、このパンとぶどう汁において、お互い同士結び合わされて一つになるのです。~今や、私たちが自分の信仰告白によって確証しなければならない決定的な時が、わが村に到来したことは、疑うべくもない事実であります。」私たちは信仰告白をなんとなく朗読するのではなく、一言一言に信じる意志を込めて、告白致します。そしていつも信仰の目を覚まして、イエス・キリストこそ真の救い主と告白し、イエス・キリストに従う毎日と生涯を生き抜きたいのです。アーメン。

2024-02-24 23:50:44(土)
説教「聖霊による一致」  2024年2月25日(日)受難節第2主日公同礼拝
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編119:81~96、使徒信条、讃美歌21・514、聖書 民数記12:3(旧約p.)、エフェソの信徒への手紙4:1~6(新約p.)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌515、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(民数記12:3) モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。

(エフェソの信徒への手紙4:1~6) そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

(説教) 本日は、受難節(レント)第2主日公同礼拝、説教題は「聖霊による一致」です。です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4:1~6です。最初の小見出しは、「キリストの体は一つ」です。

 できるだけ毎月一回、エフェソの信徒への手紙を読む礼拝を、神様に献げています。この手紙の1章1節には、イエス・キリストの弟子・使徒パウロがこの手紙を書いたと書かれています。色々な理由により、この手紙が書かれたのはパウロの時代より後であり、パウロの信仰を受け継いだ後継者がこの手紙を書いたのではないかという説もあります。しかしこの礼拝では、1章1節の御言葉をそのまま受け入れ、パウロが買いた手紙と見て説教も行っています。パウロが書いた諸手紙には1つの構造があり、前半で福音を語り、後半で救いに基づくクリスチャンの生き方を述べるという構造です。エフェソの信徒への手紙も、大きく分けると1~3章が福音で、4章から先が福音に基づくクリスチャンの生き方を述べていると言えます。

 1節「そこで、主に結ばれて囚人となっている私はあなた方に勧めます。勧めは勧告です。福音に基づいて、このような生き方をするように勧めます、勧告しますというのです。目を引くのは、パウロが自分を「主(イエス・キリスト)に結ばれて囚人となっている」と言っていることです。実は3章1節でも同じことを言っていました。「あなた方、異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっている私パウロは。」パウロが「キリストの囚人」ならば、私たちも「キリストの囚人」です。「キリストの囚人」を言い換えると、「キリストの奴隷」となります。パウロは、ローマの信徒への手紙6章16節以下で、こう語っています。「あなた方は罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなた方は、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」クリスチャンは、ただイエス・キリストの十字架と復活によって、すべての罪を赦され、罪の奴隷状態から解放されました。それまでは罪と死に支配され、罪と死の奴隷でしたが、そこから解放され、自由にされました。

 では自由にされたのだから、糸の切れた凧のように自由気ままに飛んで行ってしまうのかと言うと、そうではありません。今は聖霊に満たされて、義の奴隷になった、神様の奴隷になった、イエス・キリストの奴隷になったのです。奴隷と言うと驚かれるかもしれませんが、新約聖書の元の言葉であるギリシア語では、確かにクリスチャンは「神の奴隷、キリストの奴隷」だと明記されています。奴隷は僕(しもべ)と訳すこともできるので、教会では、「私たちクリスチャンはイエス・キリストの僕」だという言い方の方が定着しています。しかし、僕ははっきり言えば「奴隷」です。

 しかし無理やり働かせられる奴隷とは違います。私たちはイエス・キリストの御姿を見上げます。イエス様が私たちの奴隷(僕)となって下さった御姿を見上げます。自ら進んで私たちの奴隷(僕)となって、弟子たちと私たちの足を洗って下さった御姿、自ら進んで私たちの奴隷となって、私たち皆の罪を背負って十字架に架かって下さった御姿を見上げます。そして私たちは、僕の生き方を学びます。イエス様を模範とし、イエス様に従って生きて行こう。イエス様に倣って、自分も父なる神様の僕、イエス様の僕、イエス様の囚人として、父なる神様を愛し、隣人を愛し、父なる神様にお仕えし、隣人にお仕えして生きて行こうと思うようになります。

 その生き方が具体的、エフェソ書4章1~3節に記されています。「そこで、主に結ばれて囚人となっている私はあなた方に勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」イエス様の僕にふさわしく歩みなさい、と勧められています。「一切たかぶることなく」を口語訳聖書は、「できる限り謙虚で」と訳しています。この「高ぶることなく」と訳された言葉は、使徒言行録20章19節に出て来ます。パウロがエフェソ教会の長老たちに別れを告げる場面です。パウロはこう述べます。「すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかって来た試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。」自分を「全く取るに足りない者と思い」が、「一切高ぶることなく」と同じ言葉です。エフェソの教会の人々に「一切高ぶることなく」歩みなさいと説いたパウロ自身が、その通りに一切高ぶることなく、自分を取るに足りない者とエフェソの教会の長老たちに告げて、伝道に励みました。イエス様ももちろん謙遜で、旧約聖書の偉大なリーダー・モーセについても聖書は、民数記12章3節(本日の箇所)で、「モーセという人はこの地上の誰にもまさって謙遜であった」と書かれています。もちろんイエス様こそ、最も謙遜な方なのです。

 2節の続きには、「柔和で、寛容の心を持ちなさい」と書かれています。2~3節に書かれていることは全部、イエス様の心です。イエス様を真似をしていればよいのです。柔和という言葉は、イエス様の「山上の説教」に出て来ますね。マタイ福音書5章5節「柔和な人々は、幸いである。その人たちは、地を受け継ぐ。」そして寛容の心。これもイエス様の心であり、同時に父なる神様の持つ心です。2節の後半から3節「愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めさい。「愛、忍耐、平和。」この
3つもやはり、父なる神様の心、イエス・キリストの心です。2~3節に登場する言葉、「一切高ぶらない(謙遜)、柔和、寛容、愛、忍耐、平和、霊(聖霊)」を見ると、ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節の「聖霊の実」と重なるとの印象を受けます。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」「愛、平和、寛容、柔和」が共通です。

 エフェソ4章に戻り3節「平和のきずなで結ばれて、霊(聖霊)による一致を保つように努めなさい。」「務める」と訳されたギリシア語は、辞書によると「熱心に努める」の意味です。英語のある訳を見ると、「平和のきずなの中で、霊による一致を維持する(保つ)ためにすべての努力しなさい」と訳されていました。神様が霊(聖霊)によって一致した教会をお造りになった。その霊によって一致した教会の一致を維持する(保つ)ために熱心に努めなさい、すべての努力をしなさい。「平和のきずなに結ばれて、霊(聖霊)による一致を維持するために」です。平和と一致を維持するためには、熱心な努力と、すべての努力が必要だというのです。平和と一致は、何となく維持できるものではなく、絶え間ない努力、惜しみない努力が必要だと言っているように聞こえます。世界レベルでもそうですし、一つの教会の中でも、多くの教会の集まりにおいてもそうだと言っているように聞こえます。ある意味、壊すこと、分裂することは難しくない。一致を維持するためにこそ、尊い努力が必要。

 やや飛躍するようですが、ナチスと戦って39才で死刑になったドイツのボンヘッファーという牧師は、「安全保障の道を通って、平和に至る道は存在しない。平和とは、なさなければならないことであり、一つの冒険」だと書いているそうです。「平和とは一つの冒険」とは、平和は簡単に実現するものではなく、「私たちの不断の祈りと努力によって初めて実現できること」ということでしょう。戦争は真の解決を遠のかせる安易な手段であり、平和を造る地道な努力の方がはるかに尊く、もっと大変ということと思います。「平和のきずなで結ばれて、霊(聖霊)による一致を保つように努めなさい。」このような御言葉が、教会総会の日に与えられていることも、意味深いと感じます。
 
 4~5節は実に印象的です。まず「体は一つ。」聖書では教会はキリストの体です。イエス様が頭で教会はキリストの体です。体は一つ、つまり教会は本来一つです。「霊(聖霊)は一つ(お一人)です。それは、あなた方が、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」ここは原文を調べると、「一つの体、一つ(一人)の霊、一つの希望、一人の主、一つの信仰、一つの洗礼(バプテスマ)、唯一の神」です。「一つの(一人)の」という言い方が7つ続くのです。「一つの体、一つ(一人)の霊、一つの希望(天国の希望)、一人の主、一つの信仰、一つの洗礼(バプテスマ)、唯一の神。」「一つ(一人)」が強調されています。神様がお一人なので、その神様が源なので、そこから一つの教会、一つ(一人)の霊、一つの希望、一人の主、一つの信仰、一つの洗礼(バプテスマ)」が出て来るのですね。お一人神様から一つの体、つまり一つの教会が出た。このように教会は本来一つの教会なのだから、私たちは、「愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊(聖霊)による一致を保つように努める」、熱心に努める、すべての努力を注ぐことが求められています。エフェソの信徒への手紙の大きなテーマは「教会」です。教会だけがテーマでないかもしれませんが、「イエス・キリストの教会とは何か」が重要なテーマの一つであることは、事実です。

 「教会は一つ」とありますが、現実の教会は多くの教派に分かれています。まず10世紀に西方教会(カトリック教会)と東方教会(ギリシア正教会)に分裂しました。16世紀に西方教会内で宗教改革が起こり、カトリック教会からプロテスタント教会が分かれ出ました。宗教改革を経たけれどもカトリック的要素も残したのが聖公会と言えそうです(カトリックとプロテスタントの中間)。プロテスタントの中でも多くの教派教団に分かれています。福音派の諸教会、救世軍、メソジスト教会、バプテスト教会、セブンスデー・アドヴェンティスト、無教会、日本基督教団。百花繚乱とも言えます。しかし、分かれることが多かったけれども、20世紀になって起こって来たのが、エキュメニカル運動(世界教会運動、教会一致運動)です。プロテスタントの1910年のエジンバラ世界宣教会議から始まったそうですが、カトリックが1962年から1965年に行った第二バチカン公会議でプロテスタント等との対話に転換したことで大きく前進したようです。私たちも用いているこの新共同訳聖書の大きな意義は、プロテスタントとカトリックが協力して翻訳した点にあります。そのことは前文に明記されています。

 「一つの(キリストの)体、一つの霊、一つの希望、一人の主、一つの信仰、一つの洗礼(バプテスマ)、唯一の神。」暫く前の礼拝で読んだ、ヨハネ福音書17章のイエス様の祈りが思い出されるのです。17章21節「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」これは狭くとれば、すべてのクリスチャンを一つにしてください、ですし、広くとれば、世界のすべての人を一つにして下さい、の意味になります。そして22、23節のイエス様の祈りは、すべてのクリスチャン・すべての教会が一つになるようにとの祈りです。「あなたが下さった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」この祈りが少しずつ実現に向かっているのではないかと思います。

 「一人の主、一つの信仰。」このように言われていますが、私たちが信仰の一致のために重視しているのが信仰告白です。聖書の信仰を短く正確に結晶させた宝石が信仰告白です。その代表は使徒信条です。多くの教派で共有されています。同じく重要な信仰告白が二ケア信条で、『讃美歌21』の147ページに記載されており、私たちも時々読んで学ぶとよいものです。そして日本基督教団では、日本基督教団信仰告白を制定しています。日本基督教団は1941年に多くの教派が合同してできたので、何が正しい信仰なのか明確にする必要があったので、制定されました。使徒信条より詳しい内容です。東久留米教会では、聖餐式を行う礼拝の時には、日本基督教団信仰告白を皆で告白しています。これも非常に普遍的な内容で、クリスチャンなら世界のどの人にも賛同していただける信仰告白と信じます。私たちはこれを共に告白することで、「一つの信仰、一つの体」であることを確認することができます。最近お会いしたある80才ほどの牧師の方は、「私たちの教会では毎週の礼拝で、皆で日本基督教団信仰告白を告白していますよ」と言われました。「暗記したらいいんだよ」とも言われました。私は牧師ですから暗記していますが、皆様もぜひトライして下さい。無理強いはできませんが、ぜひ暗唱にトライして下さい。

 6節「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」私は最近、教会防災ネットワークNHK(新座 東久留米 清瀬)の清瀬バプテスト教会の会員のドクターがYou Tubeで提供して下さったその方の講演を聴きました。希望の方には、申し出て下さればオンラインで視聴できるように手配します。清瀬の病院と教会の歴史についての講演です。清瀬にはかつて、結核療養所が多かった。今清瀬にある病院の多くはかつて、結核療養が中心だったそうです。教会と病院がセットになっている所が3箇所あります。カトリックの秋津教会とベトレヘム病院(高齢者ホーム、今は天国におられる教会員・児玉敏子さんが入居)、救世軍の教会と救世軍の清瀬病院、日本基督教団清瀬信愛教会と信愛病院。教会と関係ない病院も多い。療育園もあります。ベトレヘム病院は、中野の江古田の修道院におられた外国人の神父が尽力してできたそうです。江古田の修道院の隣りのホームには平原さんが入居しておられました。シスターやクリスチャンたちが結核療養病院でも奉仕されました。患者の方が亡くなると、シスターがご遺体をリヤカーで10キロ以上もお運びしたそうです。清瀬が神様の愛と癒しの街であることが、改めて分かりました。「すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられる神様がお隣の清瀬市においても、もちろんこの東久留米市においても、今も生きて、愛をもって働いて下さって下さることを感謝致しました。アーメン。