日本キリスト教団 東久留米教会

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2023-12-23 19:42:37(土)
「幼子イエス様を拝む真の知恵」2023年12月24日(日)クリスマス公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~5,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編23、使徒信条、讃美歌21・258、聖書 ミカ書5:1~5(旧約p.1454)、マタイ福音書2:1~12(新約p.2)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌261、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ミカ書5:1~5)  エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。アッシリアが我々の国を襲い/我々の城郭を踏みにじろうとしても/我々は彼らに立ち向かい/七人の牧者、八人の君主を立てる。

(マタイによる福音書2:1~12) イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

(説教) 皆様、クリスマスおめでとうございます。本日は、クリスマス礼拝です。説教題は「幼子イエス様を拝む真の知恵」です。新約聖書は、マタイ福音書2:1~12です。

 イエス様がお生まれになったのは、紀元前7年から4年の間くらいだろうと聞いています。父なる神様のご計画により、ヨセフと婚約していた15~16才の少女マリアを母として、ベツレヘムの町でお生まれになりました。第1~2節「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」中近東は、星がすばらしくよく見える地域だったと聞いています。占星術の学者たちが何人だったかは分かりません。複数形なので二人以上であることだけが分かることです。占星術の学者は、原語でマギです。英語のマジック(魔術)の語源と思われます。星占いか魔術の知識によって、将来を予測したり、人生相談してくる人々にアドヴァイスをする職業だったのでしょう。聖書では占いは悪魔が行う罪です。彼らは、当時の知識人です。しかし自分たちの知識を絶対のものとは考えませんでした。そこが立派です。当時、ユダヤ人でなくてもユダヤ教に帰依する外国人たちがいました。ユダヤ人・イスラエル人の神、聖書に登場する神こそ、宇宙万物を造った真の神様と信じた外国人です。この占星術の学者たちも、そうだったのではないかと思います。

 彼らは東方から来ました。ペルシャ・今のイラン辺りから来たのではないかと言われます。ゾロアスター教の祭司だったという説もあります。しかしひときわ輝く星を見たとき、これぞユダヤに真の王、真の神か来る真の救い主が誕生されたことを知りました。彼らは謙虚です。真の王・救い主を礼拝するために、遠くイスラエルを目指して旅立ちます。自分たちの知識と知恵は真に不十分である。真の王・真の神の子を深く知る必要がある。こう信じた彼らは、献げ物(贈り物)を持って、真の王を礼拝するために出発致しました。彼らは真の知恵を持つ、真の意味での賢者だったのです。

 この謙虚な占星術の学者たちを見る時、私は新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)21節以下を思い出します。私はクリスマスには、この御言葉をよく思い出します。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるし(奇跡)を求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者(神様に呼ばれた者)には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」神の知恵は、救い主イエス様を最も無力な赤ちゃんとして地上に誕生させ、イエス様をさらに無力な十字架におつけになったことです。この赤ちゃんこそ私たちの救い主、この十字架にかかって復活された方こそ、私たちの救い主。私たちが、この救い主の前にへりくだって、膝を屈して礼拝することこそ、私たちにとって最も賢い、真の知恵ある行いです。

 さらにこう続きます。「兄弟たち、あなた方が召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてある通りになるためです。」

 占星術の学者たちは無学ではないのですが、ユダヤ人から見れば、神の救いに入れられていない異邦人、外国人です。しかし神様は彼らを招いて、信仰と永遠の命を与えられたと思います。彼らは赤ちゃんイエス様を拝む、真の知恵を持っています。ヘロデは、ユダヤの権力者です。神様は、自分の力を誇っていたヘロデに、恥をかかせられました。占星術の学者たちがヘロデの指示に従わず、別の道を通って自分たちの国へ帰って行ったことで、ヘロデは恥をかきました。

 さて、マタイ2章3節「これを聞いて(占星術の学者たちが、新しく生まれたユダヤ人の王を拝みに来たと聞いて)、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシア(救い主)はどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者(ミカ)がこう書いています。『ユダの地ベツレヘムよ、』お前はユダの指導者たちの中で、決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者(羊飼い)となるからである。』」

 これは基本的に、本日の旧約聖書ミカ書5章1節以下の引用です。そこにはこうあります。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。」マタイ福音書は、ここを少し変えています。「ベツレヘムは、決して一番小さいものではない。」ふつうは聖句を変えてはいけないのですが、イエス様の誕生の地ベツレヘムの存在感を少し増そうとしたのでしょう。「お前の中から、私(神)のためにイスラエルを治める者(指導者)が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。まことに、主は彼らを捨て置かれる。産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は、イスラエルの子らのもとに帰って来る。彼(メシア(救い主))は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。」これは明らかに「平和の主メシア(イエス・キリスト)」のことです。そのイエス・キリストが、ベツレヘムに生まれると予告しています。

 マタイに戻り7節。「そこでヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。その頃にベツレヘム周辺で生まれた男の子の一人がメシアなのだから、それを皆殺そうと考えたのです。まさにヘロデは。悪魔に魂を売り渡した男です。8節「そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう』と言って、ベツレヘムへ送り出した。」9~10節「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」「喜びにあふれた」を丁寧に訳すと、「大きく、この上もない喜びを、喜んだ。」喜びを強調する形容詞と副詞で二重に強調され、しかも「喜びを喜んだ」と「喜び」という言葉も2つ重ねられています。ですから私に言わせると「喜び」が四重に強調されています。「大きく、この上もない喜びを喜んだ。」新共同訳は「喜びにあふれた」ですが、私の理解では、「喜びにあふれた」×二倍、ということになります。表現しようもないほどの深い喜びだったと言えます。この地上の喜びの次元を超える、聖霊によるあふれる深い喜びだったに違いないのです。フィリピの信徒への手紙4章4節を思い出します。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」テサロニケの信徒への手紙(一)5章16節以下も、思い出されます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。」実行は、なかなか難しいと感じてしまいます。私たちがよく祈って、私たちに聖霊が豊かに注がれる時、私たちも聖霊のお働きによってこのように生き始めることができます。

 11節「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」これらは皆、王に献げるにふさわしい価値あるものでした。この御言葉は、イザヤ書60章の預言の実現だという人もいます。その可能性はありますね。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかも、あなた(イスラエル)の上には主が輝き出て、主の栄光があなたの上に現れる。~息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも心は晴れやかになる。~らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして主の栄誉が宣べ伝えられる。」学者たちは、黄金、乳香、没薬を真心を込めて献げました。それはイエス様への純粋な愛の表明です。
 そして没薬について私たちは知っています。ヨハネ福音書19章を読むと、私たちの罪を全部背負って十字架で死なれたイエス様のご遺体が採り降ろされた時、イエス様の隠れた弟子だったニコデモが、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来たことを。1リトラは約326gなので、百リトラは32kg以上です。それをイエス様のご遺体の処置に用いました。この用途にも用いる没薬が、イエス様の誕生後に占星術の学者によって献げられました。それは既にこの時から、イエス様が私たちのために十字架で死んで下さる(もちろん三日目に復活されます)ことが暗示されていると読まれています。

 12節「ところが、『へロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」彼らは神に従い、悪魔に魂を売り渡したヘロデには従わなかったのです。そして自分たちの国へ帰ったのですが、決して「元の木阿弥」になったのではありません。占星術も捨てたのではないかと思います。占星術も捨てて、イエス様を礼拝し、イエス様に従う人生に方向転換したに違いありません。方向転換を、罪の悔い改めと呼んでも同じです。彼らはきっと、自分の罪を悔い改め、生き方を報告転換し、イエス様に従う新しい生き方に進んだのです。ですから、クリスマスは私たちの罪を悔い改めるとき、生き方の方向転換をし、イエス様に従う方向に進み始める時です。

 占星術の学者たちは黄金、乳香、没薬という貴重品を、イエス様に献げました。
しかし献げ物は、金額が多ければイエス様が喜んで下さるとは限りません。ルカによる福音書21章の「やもめの献金」の箇所を読めば、分かります。イエス様は言われました。「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

 私が子どもの頃、好きだった人形劇(アニメーション)に「リトル・ドラマー・ボーイ」があります。イスラエルの砂漠に生きる少年アロン(モーセの兄とは別人)は、両親から小さな太鼓をプレゼントされ、喜んで叩いて上手になります。らくだ、ろば、子羊が太鼓に合わせて踊るようになります。ところが悪人に襲撃されて両親が命を落とし、少年アロンの心は悲しみと憎しみで満たされ、三匹の動物と旅に出ます。悪い男につかまり、その男は太鼓が上手なアロンを利用して金もうけを企むのですが、アロンはその男から逃げます。すると空に、ひと際輝く星が見えます。神の子イエス様の誕生を告げる星です。アロンと三匹の動物たちは、星を目当てに進みます。占星術の学者たちも、この星を目当てに進んで来ます。

 着いた馬小屋には、最も美しい光景が待っていました。マリア、ヨセフ、そして飼い葉桶に赤ちゃんイエス様が眠っています。アロンが近づこうとすると、暴走気味の馬車に、アロンの愛する子羊が轢かれ、瀕死になります。心優しいアロンは、涙を流して子羊を抱きしめます。占星術の学者に助けを求めますが、「私には助ける力はない」と言われ、赤ちゃんイエス様のもとに行きなさいと言われます。アロンは、「でも貧しい僕には、イエス様に献げる物が何もない」とためらいます。しかしアロンはそこで、はっと思い立って、真心を込めて太鼓をたたき、演奏します。これがアロンの精一杯の献げ物です。イエス様も父なる神様も、深く喜んで下さいました。マリアさんも微笑んで下さいます。後ろを振り向くと、何と子羊が元気になっています。神様が癒して下さったのです。アロンは、子羊をしっかりと抱きしめて、喜びの涙を流します。そしてアロンは、自分の心の中にあった人を憎む気持ちが、消えていることに気づきます。イエス様が、彼の心の中から憎しみを取り除いて下さったのです。イエス様の誕生を告げる星が燦然と輝く中、心の清いアロンは、愛する動物たちと、新しい希望の道へと踏み出します。そこにナレーションが響きます。「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」(マタイ福音書5章8節)。私たちも占星術の学者たちのように、少年アロンのように、イエス様の誕生を感謝して、真心を込めて自分の献げ物を献げる者でありたいと、願わずにはいられません。アーメン。




2023-12-17 2:53:55()
説教「神は我々と共におられる」 2023年12月17日(日)待降節(アドヴェント)第3主日公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~5,頌栄29、主の祈り,交読詩編116、使徒信条、讃美歌21・236、聖書 イザヤ書7:13~17(旧約p.1070)、マタイ福音書1:18~25(新約p.1)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌573、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書7:13~17) イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。

(マタイ福音書1:18~25) イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第3主日礼拝です。説教題は「神は我々と共におられる」です。新約聖書は、マタイ福音書1:18~25です。

 本日のマタイ福音書の小見出しは、「イエス・キリストの誕生」で、イエス・キリストが生まれるまでの経緯(いきさつ)が記されています。先週の系図から分かる通り、イエス・キリストはイスラエルの先祖アブラハム、ダビデ王の子孫ヨセフの妻マリアからお生まれになったのです。本日の最初の18節「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」先週、系図と訳された言葉にゲネシスというギリシア語が含まれていると申し上げましたが、今日の「イエス・キリストの誕生の次第」の「誕生の次第」も実はゲネシスという言葉です。旧約聖書でゲネシス(英語でジェネシス)は創世記を意味しますね。先週申しました通り、創世記は世界のゲネシス(起源、由来)を明らかにし、新約聖書の冒頭のこのマタイ福音書1章はイエス・キリストのゲネシス(起源、由来)を明らかにしています。そこに聖霊(神様の清き霊)が直接深く働いておられることも両者に共通しています。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」当時のユダヤ・イスラエルでは、婚約はほとんど結婚と同等の法的重みをもっていたそうです。ですからマリアとヨセフも周囲からほとんど結婚した夫婦のように見なされていましたが、まだ同居に至っていなかったのでしょう。まだ同居していないのに、マリアが身ごもっていることが明らかになった。常識で判断すれば、それはマリアが暴力を受けて妊娠したのでないとすると、ヨセフ以外の他の男性と関係をもって妊娠したと判断されてしまいます。しかしそうではなく、マリアは通常の男女関係によらず、聖霊の尊いお働きを受けて身ごもったのでした。

 イエス様と違って私たちは皆、通常の夫婦の交わりによって受精が起こり、母親の胎内に宿ったのですが、しかしその場合でも、命を本当に生み出して下さった方は、真の神様であり、聖霊なる神様だと言って間違いありません。創世記2章を読むと、神様は土の塵で人間を造り、その鼻に命の息(霊)を吹き入れられた、こうして人は生きる者となった」と書かれていて、神様が人の鼻に命の息(霊)を吹き入れて、人の命が完成したと分かります。人間の受精卵に、神様が命の息を吹き込まれるのだと思います。そうして母親の胎内で成長するのですね。神様が命の息を吹き込まれる瞬間があると思うのですが、それがいつなのか、私たちには分かりませんね。これは神秘だと思います。

 詩編139編13節以下には、こう書かれています。母親の胎内で起こっている神様の命(人間)を創造なさる業についてです。ひ「あなた(神様)は、私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立てて下さった。私はあなたに感謝をささげる。私は恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、私の魂はよく知っている。秘められたところで私は造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない。胎児であった私をあなたの目は見ておられた。」通常の妊娠でも、神様がこのように一瞬一瞬働いておられます。私たち人間の存在一人一人が、神様の尊い奇跡です。ましてイエス様が処女マリアから誕生されるにあたっては、人間の行動は何もなく、ただ聖霊なる神様が静かに力強く、愛をもって働かれたのです。 また、コヘレトの言葉11章5節には、こうあります。「妊婦の胎内で霊や骨組がどのようになるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。」妊婦の胎内の新しい命にいつ神が息を吹き込むのか、骨組みの細胞がどのように成長するのか、科学の力を駆使しても全部は解明できないでしょう。神の偉大な御業、神秘です。特にマリアの妊娠は、人間の関与が全然中で、聖霊なる神様のみがひたすら働かれて、妊娠・胎内での成長・出産まで守られたことになります。

 最初に、創世記の天地創造とマタイ福音書のイエス様の誕生の場面には、聖霊が直接深く働いておられる共通性があると申しました。創世記1章1、3節はこうです。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊(聖霊)が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」「神の霊が水の面を動いていた」の「動く」は原語のヘブライ語で、「鳥が羽ばたく、宙に舞う」という意味の動詞で、鳥がパタパタと力強く激しく羽ばたき空に舞う様子を表す動詞です。ですから聖霊が激しく吹いてエネルギッシュに働いて、「光あれ」等の神の言葉による天地創造の業に参与されている様子が表現されています。聖霊は、生ける神様の霊ですから人格(神格)をお持ちの神様で、単なる力やエネルギーではないのですが、しかし人格(神格)と共に力をも持っておられます。その聖霊がマリアさんにも激しく働きかけて、胎内にイエス様という命を宿らせて下さったのです。

 さて、「マリアが聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。マリアは、自分が聖霊によって身ごもったことを知っていました。ルカによる福音書1章を見ると、マリアは事前に天使のお告げを受けていたからです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザべトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアはこれを受け入れて、「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と言ったのです。マリアはヨセフにこの出来事を話したのではないでしょうか。もし聞いたとしても、ヨセフは自分が天使からお告げを受けたのではなかったので、すぐには信じられなかったのではないでしょうか。

 マタイに戻り、19節。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」この一文がどのような意味なのか、案外多くの解釈があるようです。しかし素直に読めば、こうではないかと思います。「夫ヨセフは十戒などの神様の戒めを忠実に守って生きる誠実な人だった。マリアが性的暴力を受けたとは見えないので、マリアの妊娠は、普通に考えれば、マリアが他の男性と交わって姦通の罪を犯したからとしか考えられない。自分を裏切ったマリアと一緒になることはできないので、離縁するしかない。しかし、ご存じの通り、当時のイスラエルで姦通の罪に対する刑罰は石打による死刑です。マリアがヨセフによらないで妊娠したことが多くの人に知れれば、マリアは石打ちで死刑になります。ヨセフは正しい人ではあったけれども、愛もある人だったので、愛するマリアが死刑になるに忍びず、目立たないようにそっと離縁して、どこか遠くへでも行ってもらって、死刑にならずに子どもと共に生活してもらおうと思ったのだろうと思います。しかしこの方法も完全ではありません。15才くらいのマリアが別の土地に行ってシングルマザーと息子で生きていくのは、無理かもしれません。そこでも姦通を疑われれば、やはり死刑になる可能性があります。ヨセフとしては精一杯の対応ですが、不十分であり、ヨセフとしては万策尽きた思いだったでしょう。

 そこに神の助けが与えられます。神様がヨセフに天使を送って下さったのです。天使とは、新約聖書のヘブライ人への手紙1章14節によると、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」と書かれています。バークレーというイギリスの聖書註解者は、「聖書において登場する天使とは、万策尽きた場面に現れる助け手のことだ」と書いているそうです。神様が天使を用いて、万策尽きているヨセフを守り、ヨセフを導いておられます。神様は、私たちが万策尽きたときも、必ず天使を送るなどして、助けて下さいます。本物の天使を派遣して下さるときもあれば、人間を天使のように用いて私たちを助けて下さることもあります。

 一昨日の朝日新聞に、元首相・菅直人氏のインタビューが出ていました。東日本大震災、福島第一原子力発電所事故の時に首相だった方です。クリスチャンではないと思います。あの原発事故は恐怖でした。当時の新聞も一面に「最悪の事態に備えを」との見出しを掲げました。日本の東半分が放射能に汚染されるかもしれないという雰囲気でした。幸いそこまでになりませんでした。菅氏によると、「第一原発の吉田所長が(現場に)踏みとどまってくれたことが、事故があのレベルで収束した一つの要因。そして偶然が重なった。(私は)あまり神という言葉は使わないが、あれは神のご加護としか言いようがない。」クリスチャンでない菅氏がこう語っている。もっと最悪の事態になっても不思議でない事故なのに、そこまでにならなかった。私もそれは本当に神様の憐れみと助けがあったからだと思います。神様が天使を送って助けて下さったか、神様が直接御手を伸ばして助けて下さったか、どちらかです。私もあの時は最悪の事態にならないように必死に祈ったし、祈って下さった方が日本にも外国にも多くおられたに違いありません。神様がその祈りに応えて、もっと最悪の事態に拡大しないように防いで下さったと強く感じます。

 話をマタイ福音書に戻しますが、神様が天使によって、ヨセフにはっきりととるべき道を教え、助けて下さいます。天使がヨセフの夢に現れて、言ったのです。「ダビデの子(子孫)ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 「マリアは姦通によって身ごもったのではない。ひとえに聖霊によるのである。だから恐れず、心配せず、安心しなさい。その子をイエスと名付けなさい。」ある解説書には、「神様の計画は。ヨセフがマリアを正式に妻として迎え入れて、マリアを世間の中傷(非難)から守ることである」と書かれていました。なるほど、そうだと思います。それが神様からヨセフに与えられた責任です。マリアと生まれ来る子を守ることが、ヨセフに与えられた責任です。そして天使がヨセフに、「その子をイエスと名付けなさい」と告げたことは、「あなたをこの子と血がつながっていなくても、あなたをこの子の父親と定めるので、あなたがこの子に名前をつける父親としての権利を行使しなさい」ということです。神様がヨセフに、血がつながっていない赤ん坊イエス様の父親としての責任と謙利を与えて下さいました。イエスという名前は、ご存じの方も多いように「主は救い」、「主は救って下さる」の意味だと聞いています。十字架にかかって下さり、復活することで、私たち罪人(つみびと)を、罪と死の支配から救って下さいます。

 22節「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」父なる神様は、最も愛する独り子イエス・キリストを、人間の赤ちゃんとして、この地上に誕生させて下さいました。父なる神様、イエス様において。永遠に私たちと共にいようと決心されたのです。父なる神様は、私たち罪人(つみびと)の友として歩むことを決意されました。特に、貧しい方、病気やいわゆる障がいを持つ方々、小さな子どもたちの友となろうと決心されました。だからイエス様は、弱く無力な赤ちゃんとして誕生されたのです。

 この「インマヌエル預言」は、元は旧約聖書のイザヤ書7章12節に出て参ります。イエス様の誕生より700年以上も前のイザヤ書の預言です。南ユダ王国の王がアハズという王だった時のことです。このアハズ王の名前は、マタイ福音書1章9節(イエス様の系図の中)に出ています。このアハズ王は、旧約聖書の中であまり高くは評価されていない王です。彼の時代に、アラム王国と北イスラエル王国が同盟してアハズ王の南ユダ王国に災いを計りました。それに対して神様は言われます。「落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない。アラムと北イスラエルの同盟による謀は実現せず、成就しない。信じなければ、あなた方は確かにされない。」
そして神様がアハズに「そのしるし(証拠)を求めなさい」とおっしゃるのに、アハズは「私は求めない。主を試すようなことはしない」と答えます。確かに、主を試すことは罪ですが、このケースでは、しるしを求めることが神様の御心に適うことでした。神様がイスラエルの民にしるしを与えると宣言されます。「見よ、おとめがみごもって、男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ぶ。」このインマヌエルももちろん、「神は我々と共におられる」という意味です。その男の子インマヌエル君が大きくなるまで、インマヌエル君は凝乳と蜂蜜を食べ物とし、彼が大きくなるまでにアラムの王と北イスラエルの王の領土は、必ず捨てられる。そして信じないアハズ王とその民にも、神様のお叱りが降る、このように厳しい預言ですが、このインマヌエルは、最終的にもっと深い意味をもち、それは、本日のマタイ福音書に記されている通りです。イエス様の誕生によってこそ、イザヤ書7章のインマヌエル預言が、最終的に完全に成就したのです。イエス様を人間の赤ちゃんとして、地上に誕生させたことによって、父なる神様は私たち罪ある人間たちと、永遠に共に生きようと決意されたのです。

 マタイ福音書の本日の終わりの24~25節。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアを関係することはなかった。そしてその子をイエスと名付けた。」ヨセフは、マリアが聖霊によって身ごもったことを信じ、天使の言う通りにマリアを迎え入れ、生まれた男の子をイエスを命名しました。神様に忠実に従ったのです。マリアとヨセフは、神様に忠実に従う夫婦でした。この夫婦を、最初の夫婦エバとアダムに対比することができます。最初の夫婦エバとアダムは、共に神様に背いてしまいました。人間たちの罪の歴史の始まりです。これに対して、マリアとヨセフは共に神様に従う夫婦となったと思うのです。エバとアダムの失敗を繰り返さない、新しい人間のたちの歩みをスタートしたと言えると思うのです。イエス様はさらに父なる神様に従う歩みを進まれました。私たちの現実は、時に神様に従い、時に少し罪を犯してしまう。その繰り返しに思えます。しかし聖霊なる神様に満たされ、聖霊なる神様に励まされ、神様に従う時間を少しずつでも増やしてゆけるよう、マリアとヨセフの信仰に倣い、イエス様の背中をしっかり見つめて、従って参りたいと思います。アーメン。

2023-12-09 22:46:54(土)
「イエス・キリストの誕生までの歴史」 2023年12月3日(日)待降節(アドヴェント)第2主日公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~5,頌栄24、主の祈り,交読詩編115、使徒信条、讃美歌21・235、聖書 創世記22:14~19(旧約p.32)、マタイ福音書1:1~17(新約p.1)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌241、献金、頌栄27、祝祷。 

(創世記22:14~19) アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

(マタイ福音書1:1~17) アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。


(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第2主日礼拝です。説教題は「イエス・キリストの誕生の歴史」です。新約聖書は、マタイ福音書1:1~17です。

 新約聖書を初めて読む方がまずここを読むと、なじみのないカタカナの系図がいきなり長々と出て来て、大いに戸惑い、読む気を失いかねない個所です。しかし旧約聖書を一通り読んでおくと、これらのカタカナの名前にも次第に親しむことができ、だんだんと血の通った系図として読むことができるようになると思います。旧約聖書の民ユダヤ人・イスラエル人は系図を重んじる民族、血統を重んじる民族だと聞いています。だからでしょう、旧約聖書にもしばしば系図が出てきます。このマタイによる福音書は、ユダヤ人・イスラエル人を最初の読者として想定し、ナザレの人イエス様こそ、ユダヤ人の偉大な先祖アブラハム、ダビデ王の子孫として生まれたイスラエルも正統なメシア(救い主キリスト)であることを論証するために書かれたと言われます。従ってマタイ福音書冒頭のこの系図にも意図があり、それはイエス様がイスラエルの正統な血統・血筋の中から誕生したメシア(救い主)であることを論証する意図で、まずこの系図を冒頭に書いたに違いありません。但し、厳密に言うと、来週読む18節以下を見ると、イエス様の母マリアは処女妊娠なので、イエス様は父ヨセフと血はつながっていません。それでも父(正確には養父)ヨセフが責任をもって自分の長男として受け入れ、マリアと共に養育したので、イエス様はヨセフの息子。ヨセフがアブラハム、ダビデ王の子孫なので、イエス様もアブラハム、ダビデの子孫と見なしてよいというのがマタイ福音書の主張でしょう。

 最初の第1節。「アブラハムの子(直訳・息子。子孫のこと)、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」系図と訳された原語を直訳すると「起源の書、創世の書」です。「起源、創世」の原語はゲネシスというギリシア語です。旧約聖書の最初の書である創世記を英語でジェネシスと言い、その語源がギリシア語のゲネシスと思われます。つまりマタイ福音書1章1節には。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの創世(ゲネシス)の書と書かれています。これは明らかに旧約聖書の創世記を意識しています。旧約聖書最初の書・創世記(ジェネシス)と新約聖書最初の書・マタイ福音書、特に冒頭の系図(ゲネシス)は、その意味でセットです。創世記の最初は世界の起源を明らかにし、マタイ福音書はイエス・キリストの起源を明らかにしているのです。

 1節に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあることから分かるように、アブラハムとダビデがイエス様の先祖の中で最も重要な二人です。アブラハムとは、「諸国民の父」の意味です。本日の旧約聖書は創世記22章ですが、ご存じの方が多い通り、創世記22章には、神様の指示によりアブラハムが最愛の独り子イサクを神様に献げるために、屠る(殺す)一瞬手前まで行く章です。結局ぎりぎりそれを実行せずに済んだのですが、これは父なる神様が将来本当に、最愛の独り子イエス様を十字架の死に追いやること暗示する重要な出来事です。イサクの代わりに、木の茂みにいた一匹の雄羊を神様に献げたアブラハムは、その場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けました。そして天使がアブラハムに語りかけます。16節の途中から。「あなたがこの事を行い。自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからである。」この子孫こそイエス・キリストであり、イエス様につながることで私たち日本人も、どの国の人もアブラハムの真の子孫となり、真の祝福を受けることができます。クリスチャンこそアブラハム、ダビデの真の子孫であり、その人数は天の星、海辺の砂のように増えることになり、事実今、世界中にクリスチャンがおります。

 この系図に登場するイエス様の先祖たちは、各々、美点もあれば罪もある人々です。一人の人でも、よい行動をすることもあれば、明らかな罪を犯すこともあります。基本的には非常に男性中心の系図です。女性はマリアを含めて5人登場するのみです。非常に男性中心の社会だったことが分かります。2~3節には、「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマル(女性)によってペレツとゼラ(双子)を」と続きます。これはかなりおぞましい出来事です。タマルはユダの息子の妻ですが、不幸にして夫(ユダの息子)が亡くなります。当時の習慣により弟と再婚しますが、弟も亡くなります。舅であるユダは、三男が成人したらタマルと結婚させると言いますが、実際にはその約束を果たしません。このままでは子どもを持つことができないと悟ったタマルが、非常手段を決行します。ベールを被って身なりを変え、ユダと関係を持つのです。こうして双子のペレツとゼラを産むのです。ペレツがイエス様の先祖となります。タマルの立場に立てば、こうする以外に方法がなかったのですが、とんでもなく罪深い方法です。生まれたペレツとゼラには罪はありませんが、聖書にこんな場面があって、私はびっくり仰天しました。この系図は、イスラエルの人々のおぞましい罪を全く隠し立てせずに、赤裸々に記している系図です。タマルもその後は罪を悔い改めて、神様に従う生涯を送ったのだろうと想像します。

 5~6節には、「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」ラハブは、異邦人(外国人)の遊女です。遊女であることは罪と言えますが、ヨシュアの時代にイスラエルの民がエジプトを出て荒れ野を旅し、神の約束の地カナンに入ろうとした重要な局面で、イスラエルの斥候をかくまったので、それが真の神様に従う行動だったと認められたようで、新約聖書でほめられています。ボアズと結婚したルツは、異邦人ですが、イスラエル人の姑ナオミと同じ神様を信じ、ナオミによく尽くした女性として、賞賛されます。

 そしてダビデ王が登場しますが、彼は基本的にはよい王様だったようです。神様が預言者ナタンを通して約束を与えて下さいます。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠る時、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者が私の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに(永遠に!)堅く据える。私は彼の父となり、彼は私の子となる。」この子孫が直接にはダビデの息子ソロモンを指し、究極的にはダビデの子孫のヨセフの息子イエス・キリストを指します。

 そしてマタイ1章6節後半に、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。これは多くの皆さんがご存じの、ダビデとバトシェバの有名な罪です。ダビデ王は、忠実な部下ウリヤがイスラエルのために戦争に行っていた時、ウリヤの妻バトシェバと関係をもち、バトシェバが妊娠します。姦淫の罪、不倫の罪です。慌てたダビデは、ウリヤをごまかそうと策を弄しますが、成功しません。事が露見することを恐れたダビデは、忠実な部下ウリヤを戦死に追いやります。ダビデ王の生涯最大の汚点と言えます。姦通(不倫)と殺人のおぞましい罪、特に殺人は今の日本でももちろん犯罪です。刑務所行きですね。ですがダビデが意図的にウリヤを死に追いやったことは、家臣たちにはばれなかったのかもしれません。しかし、人の目はごまかせても、神様をごまかすことはできません。神様は預言者ナタンを送って、ダビデを厳しく叱ります。ダビデの真実な悔い改めの祈りとして有名なのが、詩編51編です。バトシェバが産んだ男の子は、生まれて七日目に死にます。その子に罪はないのですが、ダビデとバトシェバの身代わりにように、神の裁きによりその赤ちゃんが死にます。これで神様の裁きは終わったようで、神様はダビデとバトシェバに離縁を求めず、バトシェバは次の男の子を産み、その子はソロモンと命名されます。この一連の出来事、ダビデとバトシェバの罪の行いを、旧約聖書のサムエル記下は、一切包み隠さず、赤裸々に記しています。マタイ福音書のイエス様の系図においても、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と書き、ダビデの名だけでなくウリヤの妻(名前のバトシェバこそ記されていませんが)もはっきり出していますから、読む私たちはどうしてもあのスキャンダルを連想します。

 ダビデと次のソロモン王の時代は、イスラエルが最も栄えた時代と言えます。ソロモン王も最初はよかったのです。神様が若きソロモン王に言われます。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」すると若きソロモン王が答えます。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕(しもべ)をお立てになりました。しかし、私は取るに足りない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与え下さい。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」すばらしい祈りです。

 神様はソロモンのこの祈りを喜ばれ、こう言われます。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、私はあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。私はまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。~もしあなたが父ダビデの歩んだように、私の掟と戒めを守って、私の道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」そのソロモンも年を取るとおかしくなります。ファラオの娘のほかにモアブ人、アンモン人、エドム人など多くの外国人の女性を愛し、700人の王妃と300人の側室を持ち、彼女たちが拝む外国の神々、偶像礼拝の罪に向かいます。モーセの十戒の第一の戒めを破る人になったので、神様のお叱りの言葉が下ります。「あなたがこのようにふるまい、私があなたに授けた契約と掟とを守らなかったゆえに、私はあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す。あなたが生きている間は父ダビデのゆえにそうしないでおくが、あなたの息子の時代にはその手から王国を裂いて取り上げる。ただし、王国全部を引き裂いて取り上げることはしない。わが僕ダビデのゆえに、私が選んだ都エルサレムのゆえに、あなたの息子に一つの部族を与える。」こうして、ソロモンの罪のために、イスラエルは南北の王国に分裂し、その後、ヨシャファト、ヨシヤという良い王様も出ますが、よくない王様もおり、国全体として真の神様に従わなくなっていったために、北イスラエル王国ははアッシリア帝国に、南ユダ王国はバビロン帝国に滅ぼされ、南ユダ王国の多くの人々が、遠くバビロン捕囚に連行されます。バビロン捕囚です。マタイ福音書1章11節に、「ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた」とあるのは、このことです。

 系図の最後の方を見ましょう。16節「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシア(救い主)と呼ばれるイエスがお生まれになった。」ヨセフの父ヤコブについては、私は全く分かりません。この系図は、神様がアブラハムとダビデに与えた約束を守って下さった系図です。人間たちの多くの罪にもかかわらず、神様が約束を守り抜いて、アブラハムとダビデの子孫を絶やさず、二人の子孫からメシア・イエス様を誕生させて下さった祝福の系図です。神様は、約束を100%守り抜いて下さる真実な方です。アブラハムからイエス様まで、大体1800年ほどの長さのようです。神様はこの間、アブラハムの子孫たち、そして全ての人間の多くの罪を、忍耐して来られたに違いありません。罪をなかなか裁かない私たちの神様は、まさに忍耐の神様です。

 遂にヨセフとマリアの名前が登場します。イエス様はアブラハムとダビデの子孫とは言え、ヨセフの血を引いていないので、アブラハムの罪、ユダの罪、タマルの罪、ダビデの罪、バトシェバの罪、ソロモンの罪を受け継いでいません。イエス様は、母マリアに聖霊によって宿られたからです。嬉しいことにヨセフとマリアは、罪を可能な限り避けて生きていた若人です。厳密に言うと少しは罪があったでしょうが、タマル、ダビデ、バトシェバ、ソロモンと比べれば、ずっと清く生きようとしていたと思うのです。ダビデの姦通のようなおぞましい罪をヨセフやマリアが犯すことは生涯なかったに違いありません。罪の多い系図を読んで、ここにヨセフ、マリア、そして罪が全くないイエス様が登場し、私たちもほっとするのではないかと思います。神様はやはり、イエス様の両親としては、かなり清い二人(律法主義者でもファリサイ派的でないけれども)、愛と清さと信仰深さにおいて神様が推薦できる二人を選ばれたのだと思います。

 もちろん神様はイエス様の十字架によって私たちの罪を完全に赦して下さいます。私たちが真心から罪を悔い改めるならば、私たちの罪を赦し、神様の伝道のために用いてさえ下さいます。イエス様の誕生までの長い期間、神様が私たち人間の罪を忍耐しながら過ごして下さり、ようやく時が満ちてイエス様が生まれて下さった恵みの深さを思いつつ、今年のクリスマスを感謝して迎えたいと願います。アーメン。

2023-12-03 1:13:06()
「キリストの計り知れない富」 2023年12月3日(日)待降節(アドヴェント)第1主日礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~5,頌栄28、主の祈り,交読詩編114、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・175、聖書 エフェソの信徒への手紙3:1~13(新約p.354)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌230、聖餐式、献金、頌栄27、祝祷。 

(エフェソの信徒への手紙3:1~13) 
こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。 すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。

(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第1主日礼拝です。教会のカレンダーでは、待降節第1主日から新年度がスタートします。説教題は「キリストの計り知れない富」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙3:1~13です。

 著者パウロは2章で、異邦人(ユダヤ人、イスラエル人でない人々)に与えられた神の恵みを語りました。「しかしあなた方(エフェソの教会の人々、そして私たち日本人も異邦人)は、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者(神様に近い者)となったのです。」そして本日の1節です。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人になっている私パウロは…。」最後の「…」でパウロが言いたかったことは分かりませんが、パウロが異邦人に伝道しているためにキリスト・イエスの囚人となっていることが分かります。それは異邦人に伝道しているために、囚人となり捕らわれの身となっていることと思われます。晩年のパウロは、エルサレム、カイザリア、ローマなどで囚われていましたから、そのどこかの獄中からこのエフェソの信徒への手紙を書いたと思われます。

 2節「あなた方のために神が私に恵みをお与えになった次第について、あなた方は聞いたに違いありません。」この恵みは、あまりにも大きな、驚くべき恵みです。クリスチャンたちを憎んで迫害していたパウロ(初めの名前はサウロ)が、罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じるクリスチャンとなり、さらには主(おも)に異邦人にイエス・キリストを宣べ伝える伝道者になったことです。パウロがこの驚くべき恵みについて、テモテへの手紙(一)1章13節以下で書いています。「以前、私は神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないときに知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、私たちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほどに与えられました。『キリスト・イエスは、罪人(つみびと)を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私は、その罪人(つみびと)の中で最たるものです(口語訳では、罪人(つみびと)の頭)。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずその私に限りない忍耐をお示しになり、私がこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」

 このように、まず罪びとの頭(かしら)である自分に与えられたキリストの恵みを語るパウロは、さらにこう述べます。エフェソに戻り3章3~4節「初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によって私に知らされました。あなた方は、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、私がどのように理解しているかが分かると思います。」「秘められた計画」は原語のギリシア語でミュステーリオンです。英語のミステリーの語源で、口語訳聖書では奥義、聖書協会共同訳では秘義と訳されています。この秘められた計画とは、パウロがここまで書いてきたことと思います。1章10節にあるように、「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭(かしら)であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」また2章15節「こうしてキリストは、双方(イスラエル人と異邦人)をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

 5節「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や、霊(聖霊)によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」イエス・キリストが誕生されるまでは、この計画は世界に対して秘められていましたが、キリストが誕生された今は、それは世界に対して開き明らかにされた(啓示された)のです。ですから今はもはや秘められてはおらず、新約聖書に書かれて世界に向かった公開されており、公の礼拝説教によって、世界に向かって公に語られているのです。教会での礼拝は、プライベートな礼拝ではなく、原則として全ての人に開かれている公の礼拝です。ですから週報に、「〇〇主日公同礼拝」と記載しています。イエス様は、マタイ福音書13章16節以下で、弟子たちにこうおっしゃっています。「あなた方の目は見ているから幸いだ(イエス・キリストを)。あなた方の耳は聴いているから幸いだ(キリストの言葉を)。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなた方が見ているもの(イエス・キリスト)を見たかったが、見ることができず、あなた方が聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」ですから、イエス様を知っている私たちもまた、旧約聖書の偉大な預言者、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルたちからうらやましがられているに違いないのです。

 エフェソに戻り6節「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものを私たちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」7節「神は、その力を働かせて私に恵みを賜り、この福音に仕える者として下さいました。」1章の説教でも申しましたが、この力は原語でデュナミスで、英語のダイナマイトの語源ですから、ここでの神の力はダイナマイ トのような力というこになります。「働かせる」はエネルゲイアで、これはエネルギーの語源ですから、パウロに対して働いた神の愛の力は、ダイナマイトのようにエネルギッシュな力だったことになります。パウロはクリスチャンを全力で迫害する人だったのに、悔い改めに導かれ、聖霊によって内面が造り替えられて、キリストの十字架の福音にひたすら奉仕する、とことん謙遜な人になったのです。

 8節「この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者である私に与えられました。」これはパウロの本心ですね。彼はかつてクリスチャンたちを全力で迫害していたからです。先ほども「私は罪人(つみびと)の中で、最たる者」と告白していました。コリントの信徒への手紙(一)15章8節以下では、こう述べます。「月足らずで生まれたような私。」「私は神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日の私があるのです。」私たち一人一人も罪人(つみびと)ですから、パウロと同じように、「ただ神の恵みによって今日の私があるのです」と告白致します。

 8節の後半「私は、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を宣べ伝えており。」恵みは原語でカリスです。カトリックでは、聖餐式のぶどう液を入れる容器をカリスと呼ぶそうです。聖餐式のぶどう液こそ(パンも)、キリストの恵みの充満だからです。私たちも本日、キリストの恵みの充満である聖餐式にあずかります。パウロは「キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を宣べ伝えている」と書いています。「キリストの計り知れない富」とは何か、考えます。お金や権力ではありません。口語訳聖書では「キリストの無尽蔵の富」となっています。「極め尽くせない宝」ということです。イエス様という方の人格、イエス様の存在そのものが「計り知れない富」、「無尽蔵の愛」、「極め尽くせない恵み」だと思うのです。イエス様の無尽蔵の富、極め尽くせない愛を十二分に味わおうと思えば、4つの福音書をできればぜ全部読めばよいと思います。4つの福音書の主人公はイエス様ですから、4つ読むには時間もかかりますから、1つでも最初から最後まで読めば、イエス様の計り知れない富、無尽蔵の愛で心が満たされると思います。

 「キリストの計り知れない富。」私は、この御言葉はローマの信徒への手紙11章33節と、深く関わっていると思います。両者に同じ言葉が出て来るからです。ローマの信徒への手紙11章33節は、パウロが神様のイスラエルと異邦人、世界を救わんとなさる深いご計画がかなり分かって、深い感動を述べている御言葉です。非常に深い箇所なので。私も正直に言ってまだ十分には分かったと言い切れない、パウロの最も深い感動が述べられている、ローマの信徒への手紙のここまでのクライマックスです。「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか。誰が、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」神の定めと道を究め尽くすことは誰にもできない、とパウロが感嘆しているのです。エフェソ3章8節では、同じパウロが「キリストの計り知れない富」と言っています。富については、ローマ書11章33節には。「神の富と知恵と知識の何と深いことか」と書かれています。「計り知れない富」の「計り知れない」は原語を見るとローマ書11章33節の「(誰が神の定めを)究め尽くし(究め尽くせない)」がとてもよく似た言葉、「(神の道を)理解しつくす(理解し尽くせない)」が全く同じ言葉です。エフェソ3章8節の「キリストの計り知れない富」と、ローマ11章33節の「神の何と深い究め尽くせない富」は、実はほぼ同じことを述べているのではないか。だとするとパウロが、「キリストの計り知れない富」と言う時、ローマ書11章33節で「ああ、神の富と知恵と知識の何と深くて究め尽くせないことか」とパウロが言う時と、同じ深い感動を込めて、パウロが語っているのではないか、と思うのです。そうであれば、エフェソ3章8節の「キリストの計り知れない富」という言葉を、パウロは最も深い感動を込めて書いていることになり、私たちも一瞬で読んで、通り過ぎてしまうことなく、「キリストの計り知れない富」という言葉に、どんなに深い意味が込められているか、じっくり祈ってじっくり考え、聖霊に助けられてこの御言葉の深い意味をもっと分からせて下さいと祈りながら読んで深く味わうことが必要と、痛感させられるのです。

 「キリストの計り知れない富。」それは究極的には、イエス様の十字架の贖い・犠牲の死によって私たちに与えられる全ての罪の赦しと、イエス様の復活によって私たちに与えられる永遠の命・復活の体です。確かにこれは「キリストが与えて下さる計り知れない富」です。ローマの信徒への手紙5章16節に、次のように書かれています。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」イエス様の十字架の贖い・犠牲の死という恵みによって、私たちにいかに多くの罪があっても、最後の審判の時に、無罪の判決が下されるのです(もちろん私たちも、自分の罪を悔い改めなければなりませんが)。これはまさに、「キリストの計り知れない富」にほかなりません。

 パウロには特に、「キリストの計り知れない十字架の赦しの愛」が身に染みたはずです。何しろ、クリスチャン迫害の先頭:立っており、ステファノというクリスチャンを殺害することにも賛成して、それに立ち会っていたからです。そんなパウロの大きな罪さえも赦される。その「計り知れない恵み」をもたらしたイエス様の十字架の贖い・犠牲の死に、パウロは涙したと思うのです。私たちも、イエス様の十字架の死が「私のためであった」と痛感するとき、ただ何となく聖餐を受けられるはずがありません。最大限の感謝と喜びとへりくだりの心で、聖餐を受けるのです。私たちの全ての罪の赦しと永遠の命の恵みを保証するのが、聖餐式のパン(ウェファース)とぶどう液です。ですからあのパンとぶどう液も「キリストの計り知れない富」です。

 9節「すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。」分かりやすくないのですが、神様の秘められた計画が、神の国の完成に向けて、どのように実現していくかを、パウロが人々に宣べ伝えているということでしょう。その宣べ伝えの内容は、コリントの信徒への手紙(一)15章23節以下と一致するのでないかと思います。「最初にキリストが復活され、次いでキリストが来られるとき(再臨されるとき)に、キリストに属している人々が復活し、次いで世の終わりが来る。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵をご自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。神は、すべてをその足の下に服従させたからです。~すべてが御子(キリスト)に服従するとき、御子自身も、すべてをご自分に服従させて下さった方に服従されます。神(父なる神様)がすべてにおいてとなられるためです。」

 最後に12節を見ます。「私たちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」自分の罪を悔い改めて洗礼を受けた人は、キリストという衣を着ているとガラテヤの信徒への手紙に書いてあります。私たち今でも罪人(つみびと)ですが、父なる神様が私たちを見て下さる時、父なる神様に見えるのはキリストという衣です。父なる神様は、「そこにイエス・キリストがいる」と深い好意によって見て下さる。ですから私たちは、罪人(つみびと)であっても確信(裁かれない確信)をもって、大胆に父なる神様に近づくことができ、父なる神様にイエス様の御名を通して、大胆に祈ることができます。ですから聖餐式を受ける時に、イエス様の深く畏れ敬いつつも、大胆に感謝と聖なる喜びを抱いて、「キリストの計り知れない富」であるパンとぶどう液をいただきましょう。アーメン。

2023-11-26 1:34:36()
説教「重い皮膚病の方を癒すキリスト」 2023年11月26日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第65回)
順序:招詞 ペトロの手紙(二)3:9,頌栄29、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・120、聖書 イザヤ書53:1~6(旧約p.1149)、マルコ福音書1:40~45(新約p.63)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌461、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書53:1~6) わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。


(マルコ福音書1:40~45) さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

(説教) 本日は、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第65回)です。説教題は「重い皮膚病の方を癒すキリスト」です。新約聖書は、マルコ福音書1:40~45です。

 本日の聖書から、救い主イエス・キリストの憐れみ深さを学ぶことができると思います。最初の40節から42節「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、私を清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」「深く憐れんで」が印象的ですが、しばしば申し上げますように、この新約聖書の原語はスプラング二ゾマイというギリシア語であり、この単語の中に「内臓」という言葉が入っています。ですからイエス様が深く憐れんで下さったということは、ただ心の中で深く同情して下さった以上のことで、心が痛むと共に内臓もきりきりと痛んだ、はらわたが痛んだことを意味します。日本語にも「断腸の思い」という表現があります。イエス様はこの重い皮膚病の苦しみをわが苦しみとして共に苦しんで下さった。腸や胃や心臓がきりきりと痛むほどに、この重い皮膚病の苦しみをご自分の全身全霊で共に苦しんで下さいました。沖縄に「ちむぐりさ」という言葉があると聞きます。
「ちむぐりさ」これは「肝(きも)が苦しい」という意味だそうです。相手の苦しみに深く同情して、自分の肝臓が痛むということですから、イエス様の深い憐れみに非常に近いと感じます。イエス様がこの重い皮膚病の人に共感した共感は、ご自分の腸や胃や心臓がきりきりと痛むほどであった。親であれば、自分の子の苦しみを、自分が代わってあげたいと思う方が多いと思います。イエス様は独身で子どもはいないのですが、他の全ての人の苦しみを、ご自分の腸や胃や肝臓や肺や心臓が痛むほどに共に苦しんで下さる愛の方です。だからこそ、私たちの全ての罪を背負って身代わりに十字架に着いて下さることもおできになったのだと思います。イエス様の愛の深さ少しでも心と体で分かって、少しずつでもイエス様の真似をしたいと願います。

 この重い皮膚病は、原語のギリシア語で「レプロス」です。口語訳聖書では「らい病」と訳されていましたが、今は「らい病」は差別語で使われません。新共同訳でも最初の1987年版では「らい病」と訳していましたが、その後それは差別語で用いるべきでないということになり、「重い皮膚病」と訳し替えられました。らい病は今はハンセン氏病と呼ぶことが普通になっています。ハンセン氏病をもたらす菌をレプラ菌と呼ぶそうです。今ではこの重い皮膚病は、おそらくハンセン氏病をも含む広い皮膚疾患を意味すると考えられているようです。マルコによる福音書をはじめ、マタイによる福音書、ルカによる福音書が同様の場面、つまりイエス様が重い皮膚病の人を癒す場面を描いています。その理由の1つは、イエス様が旧約聖書を完成に導く救い主(メシア)であることを示すためだと思われます。旧約聖書では、重い皮膚病でない人は清いが、重い皮膚病の人は汚れていると見なされています。そして共同体から隔離されてしまうのです。一時的でなくずっと隔離されるとなると、差別になってしまいます。旧約聖書の時代は、この意味で清いか汚れているかで、人々の扱いが大きく違っていたのでした。

 旧約聖書のレビ記13章45節以下には、こう書かれています。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『私は汚れた者です。私は汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」疎外され、孤独になってしまうのです。重い皮膚病が治れば、共同体に復帰できます。治ったかどうかを調べるのは、神様に仕える祭司です。祭司は宿営の外に出てその人の体を調べます。治っていると確認できれば、祭司は清めの儀式を行うため、その人に命じて、生きている清い鳥二羽と、杉の枝、緋糸、ヒソプ(植物)の枝を用意させる。次に祭司は新鮮な水を満たした土器の上で鳥の一羽を殺すように命じる。それから、杉の枝、緋糸、ヒソプ及び生きているもう一羽の鳥を取り、先に新鮮な水の上で殺された鳥の血に浸してから、清めの儀式を受ける者に七度振りかけて清める。その後、この生きている鳥は野に放つ。清めの儀式を受けた者は、衣服を水洗いし、体の毛を全部そって身を洗うと、清くなる。この後、彼は宿営に戻ることができる。しかし、七日間は自分の天幕の外にいなければならない。」

 旧約聖書も神様の御言葉ですが、しかし旧約聖書はイエス・キリストによって完成されます。イエス様は、このような規定によって差別されていた重い皮膚病の
病を癒し、同時に彼を差別の苦しみから救い出し、共同体に復帰させて下さる救いを与えて下さいました。その様子がこう書かれています。マルコ福音書に戻り、41節以下「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい、清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」とあります。この病気の人がハンセン氏病かどうかははっきりしませんが、当時多くの人は汚れがうつる、病気がうつることを恐れ、手を触れなかったと思われます。手を触れただけでも、大きな愛といたわりです。43節以下「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『誰にも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。』」イエス様は、この奇跡の癒しを誰にも話すなと厳しく言われました。それはなぜでしょう。イエス様は、ご自分の使命が誤解されることを警戒されたのではないでしょうか。

 イエス様の最大の使命は、十字架にかかって私たちの全ての罪が赦されるようにして下さることです。私たち人間は皆、父なる神様からご覧になれば、父なる神様に背いた罪人(つみびと)だからです。イエス様の一番の使命は、十字架に架かって私たち全員の罪を全部身代わりに背負って解決し、三日目に復活なさって、私たちに永遠の命への道を切り開いて下さることだからです。憐れみ深い方なので病気も癒して下さいますが、罪の赦しをもたらす救い主という一番大事なことが理解されないと困るとお考え。になったのではないでしょうか。あるいは人々によって王様にでも祭り上げられると困ると思われた可能性もあります。しかしイエス様の言葉に反して、彼は自分がイエス様によって癒されたことを、大いに人々に告げ、言い広め始めました。そこで、イエス様はもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられました。それでも、人々は四方からイエス様の所にどんどん集まって来たのです。

 本日の旧約聖書は、私たちの罪のために十字架に架けられたイエス・キリストの姿を予告するイザヤ書53章の1~6節です。2節の3行目から読みます。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちも彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。私たちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」 2節の最後の文から3節までは、昔からハンセン氏病を患っている様子が描かれているのではないかと推定されて来たそうです。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。~彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。」但し必ずハンセン氏病の描写と断定はできません。

 ハンセン氏病は、感染力がとても弱い病気で、今ではよい薬があるのですっかり治ると聞いています。しかし昔は非常に恐れられていて、外国でも日本でも差別や隔離政策が行われ、患者さんに大きな苦しみを強いてきました。この東久留米市のお隣の東村山氏にハンセン氏病の施設である全生園があり、隣接の資料館で差別の歴史等を学ぶことができます。日本で「らい予防法」という法律が撤廃されたのは、ようやく1996年のことです。全生園にはキリスト教の礼拝堂が3つあると聞いています。カトリック、プロテスタント、聖公会です。福音書の中でイエス様が癒された重い皮膚病は、今ではハンセン氏病かどうかははっきり分からないとされています。しかしかつてはハンセン氏病だと思われていたので、キリスト教会もハンセン氏病の方々をサポートするために試行錯誤しながら努力してきた歴史があるようです。今から見れば、そのすべてがベストだったとは言えないこともあるようですが、それでもキリスト教会がハンセン氏病の方々を支えるために努力してきたことは事実と思います。

 日本でもそうでした。1つの例は、明治時代に熊本に来たイギリスの聖公会の宣教師ハンナ・リデルという女性です。1891年に35才で船で日本の神戸に着きました。2年後の1893年に、熊本で本妙寺というお寺に行くことがありました。そこで大勢のハンセン氏病の人々を見かけるのです。ハンナさんにとって衝撃的でした。その人々が病が癒されるを一生懸命祈っているのを見たらしいのですが、その人々は真の神様をご存じありません。それで熊本の昔の殿様・加藤清正の霊に祈っていたそうです。加藤清正は熊本の地元のヒーローですが、神ではなく人間ですし、もう死んでいるので、加藤清正の霊に祈っても答えも効果もないに違いありませんし、真の神でない者に祈ることは、偶像礼拝の罪になってしまいます。この人々の姿を見て、ハンナさんは病院を作ろうと思い立つのです。非常に行動力のある人だったらしく、イギリスの友人知人に次々と手紙を出して、病院を作るための献金を依頼したそうです。5年後の1895年に熊本回春病院が開設されました。

 病院の名前については、よく考えました。当時は治らないと思われていたこの病気、社会から嫌われ、棄てられてこの病院に入るのではなく、当時の医学の全力を尽くして治療する病院、もし治せなくても、信仰による希望に生きることのできる病院、暗黒の人生に希望の春を回り来させる病院にする祈りを込めて、「回春病院」と名付けることにしました。「回春」という名前には、「希望の復活」の意味が込められています。そして日曜日には患者さんたちと一緒に神様を礼拝することが、ハンナさんの何よりの喜びだったようです。外国に来て病院を作るということは、かなり大変なことです。神様がハンナさんを選んで、この使命に当たらせなさったのですね。彼女を派遣したイギリスの教会とハンナさんの関係は、必ずしもよくなかったそうです。教会は「病院造りでなく伝道をしなさい」と言って来たし、ハンナさんは伝道するが、病院も作る言ってそこは譲らなかったようです。福音書の重い皮膚病は、今では「ハンセン氏病を含む、もう少し広い意味での皮膚疾患」と考えられているようですが、当時はイエス様が癒したのはハンセン氏病だと思われていましたから、ハンナさんだけでなく多くのクリスチャンが、ハンセン氏病の方々をお助けすることに情熱を注いだのです。イエス様が癒された同じ病に、イエス様に従う自分たちもその癒しのために祈り奉仕する気持ちだったと思われます。

 1902年ごろのハンナさんの持論は、「軍艦を一隻維持する費用をハンセン氏病対策に向ければ、50年以内に日本からハンセン氏病をなくすことができる」というものでした。日本もどの国も、軍事費・防衛費に使うお金を福祉に振り向ければ、様々の苦しみを減らすことができるに違いありません。ハンナさんは行動力があり、正直に言うと強引な面もあったそうです。でもすべては患者さんのためです。政治の実力者に近づく才能があり、総理大臣にもなった大隈重信とも交流があったようです。大隈重信も熊本の回春病院を支援したようです。東村山の全生園の資料館で、大熊重信からハンナさんに宛てた達筆の手紙を見た記憶があります。ハンナさんは1932年に77才で天に召されました。回春病院の敷地にある納骨堂に納骨されているそうです。独身で生涯の半分以上を日本でイエス様に従い、回春病院の運営に精魂傾けて、医者ではないが患者さんたちに尽くしたイエス様の弟子の生涯でした。

 昨日の夕刊に、群馬県の草津温泉の町に、明治初期からハンセン氏の方々が湯治に訪れていたことが記されていました。その人々は「投げ捨ての谷」と呼ばれる所で「湯之沢集落」を形造っていたそうです。「投げ捨ての谷」という名前の由来は、昔は亡くなったハンセン氏病の方が、その谷間に捨てられることもあったからついて名のようです。新聞には書かれていませんでしたが、その地にやはり聖公会の女性宣教師の働きがあったのです。ミス・メアリー・ヘレナ・コンウォール・リー宣教師です(中村茂文『リーかあさまのはなし』ポプラ社、2013年)。リーかあさまと呼ばれました。軽井沢にいたのですが、頼まれて1916年に草津に来ました。58才です。ハンセン氏病の人々が希望を持てるようにしてほしいと頼まれたのです。リーかあさまは「湯の沢」で働きはじめ、まず教会を建てました。人々の心のよりどころです。病気の人々が暮らせるホームや、医者がいなかったこの町に病院を建てました。もちろん協力者がいたと思います。幼稚園や学校も建てました。アメリカやイギリスに行って、献金していただくための旅にも行きました。草津の町は標高1200mの高原にあるので、冬は零下10度の厳しい寒さです。それでもリーかあさまは、草津の人々と同じにストーブももたずに質素に暮らしました。吹雪の日にも病人の見舞いに行きました。インフルエンザの人に夜通し付き添うこともありました。

 病気に絶望していた人々の心に希望が出て来ました。夕食後にハーモニカやブラスバンドの練習をする人々も現れ、運動会やバザーも行うようになり、「投げ捨ての谷の土地」は次第に「喜びの地」に変わってゆきました。1930年には800人の集落になりました。私は詩編84編6~7節を連想します。「いかに幸いなことでしょう。あなた(神様)によって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。」まさにそうなったのです。すばらしいと思います。リーかあさまは約20年間湯の沢で奉仕し、1936年に温かい兵庫県明石に移りました。その5年後に84才で天に召されました。

 リーかあさまが湯の沢を去った後、3キロほど離れた所に国がハンセン氏病の施設を作りました。栗生楽泉園で、多くの患者さんがそこに収容され、出ることは許されませんでした。「喜びの地」は消えてしまい。反抗する人は重監房(一種の刑務所)に入れられ、飢えや寒さで23名亡くなりました。戦争に突き進む世の中の考えは、「国民が団結して戦わねばならないとき、ハンセン氏病の人は役に立たない」というものでした。二度とそのような時代にならないように気をつけたいものです。イエス様が重い皮膚病の方を癒された愛の出来事に倣って、ハンセン氏病の方々への奉仕に生きたクリスチャンたちがいたことを、私たちも心に刻み、私たちも自分にできる形で、愛の奉仕をさせていただきたいと願います。アーメン。